この年齢で受験勉強の日々は辛い
2009年9月2日 雑記今サボり真っ最中であるが私は受験勉強をしている。
この受験勉強生活はもうすでに1年以上続いていて正直参ってきている。
30代も半ば過ぎると老いというものを感じる瞬間が多くなってくる。体力的なもの、技術的なもの、能力的なもの・・・そういったものを痛感するたびに思わずため息が出てきてしまう。
前の職場に勤めていた頃、何年経っても給料が上がることのない会社に母が資格を取ってもっと良い会社に転職しろと私に言い続けたが、私は今更勉強などしたくないと突っぱねてきた。
しかし一昨年末に今の会社に転職し仕事に慣れてきた頃、私は資格を取るために勉強を始めることになったのだ。
理由は仕事内容の変更だ。
前の会社で私は営業事務をやっていた。営業事務と言えば聞こえが良いが実際は何でも屋だ。工場で人が足りないと手伝いにかり出され、配送の手が足りないと納品に行き、営業が行けないなら集金にも行く・・・営業事務の仕事は誰も手伝ってくれないくせに他部門の手伝いには翻弄される、それでいて上司には全く評価されない、なんというか非常に報われない仕事をしていた。
7年半ほど勤めたその会社は途中代替わりをした。新たに社長になった元専務は自分が社長になる前にいた社員を次々に辞めさせていくという荒技を使って社内を掌握しようとした。気がつくと配送の運転手とパートのおばさん以外に私が入社する間からいた社員は誰もいなくなっていた。だから次は私だろう、と早々に察し向こうの都合で辞めさせられる前に新しい職場に移ったのだ。
今の会社にも当初は営業事務で入った。製造工場も持っているが私の仕事は商品を右から左へ流すという以前の会社でメインにしていたこととあまり変わりない仕事だった。そして前より大きな会社であったので役割分担が決められていて事務の仕事に専念できる、内容から見れば以前よりずっと良い環境だった。
もっとも前より規模も大きくまた入ったのが12月という食品製造業にとっては仕事のピークだったため比べものにならない忙しさを味わうことになった。
それでもそれを何とかこなしきったためか非常に上司に認められ、入社半年で経理へ転属となり会社の金庫を預かることになったのだ。
そうはいっても私は経理事務の経験はない。高校大学とも商業には無縁の勉強だったので転属はとても不安であった。
そのためもあってか転属して数日経ったとき上司から「簿記の3級をとりなさい」という指示を受けた。
そうして勉強をし出し昨年11月に日商簿記3級を今年の6月に2級の資格を取ったのだ。
3級をとれと言われ2級までとったのだからもう良いだろうと思いその旨を報告したのだが、帰ってきた言葉は「次は1級をとりなさい」というものだった。
これには本当に途方に暮れてしまった。
簿記の勉強をしたことがあるとわかるのだが2級と1級には天と地の差がある。それは有名通信教育で簿記は3級2級はあるが1級がないことでもわかる。とにかく合格率が低い。
通信教育だけでなく専門学校でも1級を扱うところは少ない。少なくとも静岡市には基本的に存在しない。(教室はあるが東京の学校で行った講義のDVDを見るだけである)
元々商業科目には素人の私だ。2級の試験も内容を理解して解いたと言うより2級の試験テクニックを身につけたといった方が正しい。それが更に深く細かく面倒くさい1級が独学でとれるはずがない。学校に通うにしろ教材代は2級の3倍以上だ。会社に言われ資格を取ってもその分の教材代や給与の補填があるわけではない。リスクが大きくメリットは少ない。上司に認められるだけである。
とりあえず教材を取り寄せ7月から勉強を始めたのだが8月の途中から現在手がつかない状態である。すっかり脳も衰えているらしく何を読んでも覚えられないのだ。
試験は11月、そろそろエンジンを掛けねば手遅れになりそうなの時期だが正直気分が盛り上がらない。やる気が起きないと身につかない私では今は無理矢理勉強しようとしても駄目だろうと思うだけである。
今こそドラえもんの暗記パンが欲しい~とあり得ない道具に希望を託している情けないアラフォー女の嘆きがここにあります。
この受験勉強生活はもうすでに1年以上続いていて正直参ってきている。
30代も半ば過ぎると老いというものを感じる瞬間が多くなってくる。体力的なもの、技術的なもの、能力的なもの・・・そういったものを痛感するたびに思わずため息が出てきてしまう。
前の職場に勤めていた頃、何年経っても給料が上がることのない会社に母が資格を取ってもっと良い会社に転職しろと私に言い続けたが、私は今更勉強などしたくないと突っぱねてきた。
しかし一昨年末に今の会社に転職し仕事に慣れてきた頃、私は資格を取るために勉強を始めることになったのだ。
理由は仕事内容の変更だ。
前の会社で私は営業事務をやっていた。営業事務と言えば聞こえが良いが実際は何でも屋だ。工場で人が足りないと手伝いにかり出され、配送の手が足りないと納品に行き、営業が行けないなら集金にも行く・・・営業事務の仕事は誰も手伝ってくれないくせに他部門の手伝いには翻弄される、それでいて上司には全く評価されない、なんというか非常に報われない仕事をしていた。
7年半ほど勤めたその会社は途中代替わりをした。新たに社長になった元専務は自分が社長になる前にいた社員を次々に辞めさせていくという荒技を使って社内を掌握しようとした。気がつくと配送の運転手とパートのおばさん以外に私が入社する間からいた社員は誰もいなくなっていた。だから次は私だろう、と早々に察し向こうの都合で辞めさせられる前に新しい職場に移ったのだ。
今の会社にも当初は営業事務で入った。製造工場も持っているが私の仕事は商品を右から左へ流すという以前の会社でメインにしていたこととあまり変わりない仕事だった。そして前より大きな会社であったので役割分担が決められていて事務の仕事に専念できる、内容から見れば以前よりずっと良い環境だった。
もっとも前より規模も大きくまた入ったのが12月という食品製造業にとっては仕事のピークだったため比べものにならない忙しさを味わうことになった。
それでもそれを何とかこなしきったためか非常に上司に認められ、入社半年で経理へ転属となり会社の金庫を預かることになったのだ。
そうはいっても私は経理事務の経験はない。高校大学とも商業には無縁の勉強だったので転属はとても不安であった。
そのためもあってか転属して数日経ったとき上司から「簿記の3級をとりなさい」という指示を受けた。
そうして勉強をし出し昨年11月に日商簿記3級を今年の6月に2級の資格を取ったのだ。
3級をとれと言われ2級までとったのだからもう良いだろうと思いその旨を報告したのだが、帰ってきた言葉は「次は1級をとりなさい」というものだった。
これには本当に途方に暮れてしまった。
簿記の勉強をしたことがあるとわかるのだが2級と1級には天と地の差がある。それは有名通信教育で簿記は3級2級はあるが1級がないことでもわかる。とにかく合格率が低い。
通信教育だけでなく専門学校でも1級を扱うところは少ない。少なくとも静岡市には基本的に存在しない。(教室はあるが東京の学校で行った講義のDVDを見るだけである)
元々商業科目には素人の私だ。2級の試験も内容を理解して解いたと言うより2級の試験テクニックを身につけたといった方が正しい。それが更に深く細かく面倒くさい1級が独学でとれるはずがない。学校に通うにしろ教材代は2級の3倍以上だ。会社に言われ資格を取ってもその分の教材代や給与の補填があるわけではない。リスクが大きくメリットは少ない。上司に認められるだけである。
とりあえず教材を取り寄せ7月から勉強を始めたのだが8月の途中から現在手がつかない状態である。すっかり脳も衰えているらしく何を読んでも覚えられないのだ。
試験は11月、そろそろエンジンを掛けねば手遅れになりそうなの時期だが正直気分が盛り上がらない。やる気が起きないと身につかない私では今は無理矢理勉強しようとしても駄目だろうと思うだけである。
今こそドラえもんの暗記パンが欲しい~とあり得ない道具に希望を託している情けないアラフォー女の嘆きがここにあります。
小中と痩せすぎレベルであった私は痩せると言うことにさほど興味がなかった。たぶん小学生の時に担任の先生に「(痩せすぎていて)宇宙人みたいだ」と言われたことがショックだったのだろう。
そんなわけで高校生になって痩せている位になった時はとても嬉しかった覚えがある。
大学時代に不摂生な生活をして1ヶ月で8kg以上太ったときは流石にこれはまずいと自覚し半年位掛けて元に戻したことはあるのだが、基本的にダイエットと言うものをやったことはなかった。
せいぜい多少体重が増えたなと思ったら間食をなくすくらいだ。
しかし8月の終わりぐらいからここ毎日体重計に乗るようになった。30代も半ばすぎになりたぶん代謝が変わってきたのだろう。特に間食をしない普通の食事だけでも体が重く感じるようになってきたからだ。
これまで特に体を鍛えるようなこともしてこなかったので仕方ないと、怠け癖のある自分でもできる減量と筋力アップを検討しはじめた。
食事は家族が作ってくれるし特に普段のものが問題とは思えなかったのでこれはそのままにする。そうなるとあとは運動しかない。
とりあえず朝と夕方に歩くことにした。筋トレやジョギングでは今まで何もしてこなかった分続かないと判断したのだ。
そして一日に何度か体重計に乗り、体重の変化をチェックすることも併せてすることにした。
それから約10日間、その生活をしてやってみた。
結果わかったことは体重が一番少ないのは朝ではない、ということだ。子供の頃から体重を量るのは大抵午前中だったのでてっきり朝が一番少ないのかと思っていたが、実際は夕食を食べる直前が一番少ないのだ。
それから朝夕のウォーキングだけでは体重は減らないと言うこともわかった。ただし増えることもなくなった・・・つまり今の普通の生活の摂取と消費がちょうどバランスがとれていると言うことなのだろう。
それならば次はどうするか、と言う話であるが増えた分を減らしたいならもう少し運動量を増やさねばならないだろう。ただし付加を高めるということはそれだけ続けるのが難しくなるリスクがつきまとう。
大学卒業以来運動らしい運動は全くやってこなかった。殆ど筋力らしいものはないだろう。だから今はまだむやみに運動量を増やすときではないと思う。もうしばらく今の状態を続けて体力がもう少しついたなら筋トレなりジョギングを始めようかと考えている。
そんなわけでもうしばらくは毎日体重計に乗り続ける生活になりそうだ。
そんなわけで高校生になって痩せている位になった時はとても嬉しかった覚えがある。
大学時代に不摂生な生活をして1ヶ月で8kg以上太ったときは流石にこれはまずいと自覚し半年位掛けて元に戻したことはあるのだが、基本的にダイエットと言うものをやったことはなかった。
せいぜい多少体重が増えたなと思ったら間食をなくすくらいだ。
しかし8月の終わりぐらいからここ毎日体重計に乗るようになった。30代も半ばすぎになりたぶん代謝が変わってきたのだろう。特に間食をしない普通の食事だけでも体が重く感じるようになってきたからだ。
これまで特に体を鍛えるようなこともしてこなかったので仕方ないと、怠け癖のある自分でもできる減量と筋力アップを検討しはじめた。
食事は家族が作ってくれるし特に普段のものが問題とは思えなかったのでこれはそのままにする。そうなるとあとは運動しかない。
とりあえず朝と夕方に歩くことにした。筋トレやジョギングでは今まで何もしてこなかった分続かないと判断したのだ。
そして一日に何度か体重計に乗り、体重の変化をチェックすることも併せてすることにした。
それから約10日間、その生活をしてやってみた。
結果わかったことは体重が一番少ないのは朝ではない、ということだ。子供の頃から体重を量るのは大抵午前中だったのでてっきり朝が一番少ないのかと思っていたが、実際は夕食を食べる直前が一番少ないのだ。
それから朝夕のウォーキングだけでは体重は減らないと言うこともわかった。ただし増えることもなくなった・・・つまり今の普通の生活の摂取と消費がちょうどバランスがとれていると言うことなのだろう。
それならば次はどうするか、と言う話であるが増えた分を減らしたいならもう少し運動量を増やさねばならないだろう。ただし付加を高めるということはそれだけ続けるのが難しくなるリスクがつきまとう。
大学卒業以来運動らしい運動は全くやってこなかった。殆ど筋力らしいものはないだろう。だから今はまだむやみに運動量を増やすときではないと思う。もうしばらく今の状態を続けて体力がもう少しついたなら筋トレなりジョギングを始めようかと考えている。
そんなわけでもうしばらくは毎日体重計に乗り続ける生活になりそうだ。
ポイントにもてあそばれる女
2009年8月31日 雑記4・5年前までは現金決済しかしない人間だった。
例外は携帯とネット料金くらい。後は買い物はすべて現金だった。
しかしながらネットショップを利用するようになりポイントを持つようになると考え方が180度変わることになった。
現金で買うよりカードで買った方がポイントがついてお得!というふれこみにつられてカードを作ったのだ。
天美祐希のCMではないがお得には弱かった。
以降買い物は基本的にカード。例外はガソリンを入れるときくらい。
ただ、今は色んなカードがありそれぞれに特有の利益不利益があるのでカードを作り始めると際限が無くなる。暗証番号の管理も大変なので基本的に今は○天のカードのみで買い物するようにしている。
その理由がネットショッピングする時最も多いのが○天ブックスでの買い物だからだ。
月平均2万5千円、多いときは10万を超えることもある○天ブックスでの買い物は今の私の生活でちょっとした負担になっている。ただしポイントも毎月1,000以上もらっているのでお得に買っているという意識は相変わらずある。
ただ…改めて考えてみるともらったポイントを無駄にしないために今すぐ買う必要も無い買い物をしていることも事実だ。特に○天は使用期間の短いポイントがあるのでますますその傾向が多い。月末が近づくとこのポイントを使って買わなきゃと思って商品を検索していることもある。
それでもネットショップは便利だ。今は会社のそばに大きな本屋があるのでその気になればここでも買えるが、以前の勤務先は近くに店が無くわざわざ遠回りをしてかいに行かなければならなかった。なので無料で自宅に届けてくれるならそれに越したことは無い。
私が○天ブックスを利用して一番困ると思っているのはポイントではなく梱包だ。それも通常配送ではなく予約商品の。
○天ブックスはすでに発売している商品と予約商品を別に管理しているらしく一緒に頼んでも別に発送されてくる。それはそれで全く構わないのであるが、困るのは同一発売日の商品が一緒に頼んでもそれぞれ個別に送られてくることだ。一度ALFEEのDVDが同日に25種類再販されたときそれがすべて別別の梱包できてしまって本当に困ってしまった。このとき私は買わなかったがCDも40タイトル再販されていたのでもしそれまで買っていたら65もの封筒が届くことになってしまうところだった。
とにかく受取難いは確認できないは挙句の果てに大量のごみは出るはであきれを通り越して怒りがわいてきた。まだ1枚ずつ頼んでいたら諦めもつくがまとめて頼んだのにこの様である。いまの簡易包装を進める時勢にも逆行している。これだけはもう少し何とかして欲しい、CDが出るたびに3種類律儀に購入しているファンとしては強く願わずにいられない。
例外は携帯とネット料金くらい。後は買い物はすべて現金だった。
しかしながらネットショップを利用するようになりポイントを持つようになると考え方が180度変わることになった。
現金で買うよりカードで買った方がポイントがついてお得!というふれこみにつられてカードを作ったのだ。
天美祐希のCMではないがお得には弱かった。
以降買い物は基本的にカード。例外はガソリンを入れるときくらい。
ただ、今は色んなカードがありそれぞれに特有の利益不利益があるのでカードを作り始めると際限が無くなる。暗証番号の管理も大変なので基本的に今は○天のカードのみで買い物するようにしている。
その理由がネットショッピングする時最も多いのが○天ブックスでの買い物だからだ。
月平均2万5千円、多いときは10万を超えることもある○天ブックスでの買い物は今の私の生活でちょっとした負担になっている。ただしポイントも毎月1,000以上もらっているのでお得に買っているという意識は相変わらずある。
ただ…改めて考えてみるともらったポイントを無駄にしないために今すぐ買う必要も無い買い物をしていることも事実だ。特に○天は使用期間の短いポイントがあるのでますますその傾向が多い。月末が近づくとこのポイントを使って買わなきゃと思って商品を検索していることもある。
それでもネットショップは便利だ。今は会社のそばに大きな本屋があるのでその気になればここでも買えるが、以前の勤務先は近くに店が無くわざわざ遠回りをしてかいに行かなければならなかった。なので無料で自宅に届けてくれるならそれに越したことは無い。
私が○天ブックスを利用して一番困ると思っているのはポイントではなく梱包だ。それも通常配送ではなく予約商品の。
○天ブックスはすでに発売している商品と予約商品を別に管理しているらしく一緒に頼んでも別に発送されてくる。それはそれで全く構わないのであるが、困るのは同一発売日の商品が一緒に頼んでもそれぞれ個別に送られてくることだ。一度ALFEEのDVDが同日に25種類再販されたときそれがすべて別別の梱包できてしまって本当に困ってしまった。このとき私は買わなかったがCDも40タイトル再販されていたのでもしそれまで買っていたら65もの封筒が届くことになってしまうところだった。
とにかく受取難いは確認できないは挙句の果てに大量のごみは出るはであきれを通り越して怒りがわいてきた。まだ1枚ずつ頼んでいたら諦めもつくがまとめて頼んだのにこの様である。いまの簡易包装を進める時勢にも逆行している。これだけはもう少し何とかして欲しい、CDが出るたびに3種類律儀に購入しているファンとしては強く願わずにいられない。
選ぶものと選ばれるもの
2009年8月30日 雑記私の父は選挙が好きである。
といっても活動をするのではなく雑誌や新聞を買い漁って自分なりの予測を立てその結果を確認するのが好き、というごく個人的な楽しみの中のひとつが選挙なのである。
私や母から見れば何がそんなに面白いのかまったくわからないが父は選挙の日はいつも遅くまでテレビを見ながらあの人は落ちた、この人は受かったと確認している。
そして今日、歴史が変わったのかもしれない総選挙があった。
結果は予想通り与党大敗・民主躍進であった。長い官僚主体の自民政権に嫌気を感じた有権者が下した決断だったのだろう。結果は概ね納得できるものだった。
私が選挙で投票する時、最後の決め手になるのは「顔」だ。美人だからとかハンサムだからということではない。その役職に就くにふさわしい顔をしているか否か、である。
例を言えば、総選挙の少し前に静岡県で県知事を選ぶ選挙があった。
すぐに手を上げたのは海野氏。元参議院議員である。その後自民党・共産党・民主党推薦の候補が立ち四人で選挙戦が行われた。
顔ぶれを見たときに私は「自民党は間違ったな」と感じた。自民党は女性候補であったが申し訳ないが彼女の顔は自治体のトップの顔ではない。たとえこの先自民党が盛り返しても私はこの人を知事に選ぶことは絶対に無いだろう、と思った。
共産党推薦の候補は申し訳ないが勝てる要素が無い。今はあくまで自民か民主の争う時代だ。共産はどちらとも違う完全野党でありこの党が政権をとることは無い。そうなれば自治体の顔としてトップに立つのは不具合だ。彼の場合は顔以前にその問題で私の中で候補から外れた。
残るのは海野氏と民主推薦の川勝氏だ。正直顔で選ぶ私的にはどちらでもかまわないな~という感じだった。似たり寄ったりの2択しかないからそれは仕方ない。
だから父には川勝氏以外に入れることは自民を応援することと同じだといわれ自民党には勝たせたくないから川勝氏にしようかな、とも思った。
結果からいえば私は海野氏に入れた。自民に勝たせるのは嫌だったが割れないことで民主の圧倒勝利にもしたくなかった。とりあえず背後が無いという意味で海野氏にしたわけだ。理想は民主が自民に競り勝つが過半数には行かない、というものだった。民主が割れて自民が逃げ勝つという最悪な結果になることも考えられるがその時はまぁあきらめようというわけだ。
そうして開票してみたらまさに私の希望通りの結果になっていた。民主と自民が約4割、海野氏が2割で民主が勝ったが過半数には到達できなかった。川勝氏は自分は勝ったが自分以外に入れた人数が多いことを自覚するだろうし、この結果でよかったのだと思った。
そして総選挙である。
私の投票は小選挙区では生きて、比例区では死に票になった。
自民か民主かの小選挙はともかく比例は民主が大勝ちしそうだったのでそれ以外の野党に投票しようと考えたのだ。当初は共産に入れるつもりだったが共産は比例では議席が取れそうであったしできればそれ以外の党にも議席を取ってほしかったので直前に変更した。そして同じように考えた人は多かったのかその党はちゃんと1議席取れるだけの得票を取ったのだ。…しかし結局のところ議席は無かった。小選挙と比例と重複する場合は小選挙区で1割以上の得票が必要、という条件が結局票を無駄にすることになったのだ。
いったいどのくらいの有権者がその条件を知っていただろう。選挙のルールくらい知っておくべきだ、といわれるかもしれないが今のような小選挙では大きな力を持つ党が絶対的に有利だ。それ以外の小さい政党に議席を与えるとするなら個人の元々の名声が高いかもしくは比例でしかまずありえない。その比例の結果が小選挙区の結果によってはじかれてしまうなら最初から小選挙区には出馬するな、といっているようなものである。なんとなくこれは納得できない決まりである。
これは今更言っても仕方無いことなのだ。しかし議員の定数を削減しようという動きがある今選挙のやり方をもう一度見直しする必要があると思う。
そしてどういう時流にせよ今回の総選挙で選ばれた議員の方々には各地元の有権者の意思に従ってより良い社会を作るような政策に奔走してほしい。まかり間違っても互いの足を引っ張り醜い泥仕合を演じることは……もう二度と無いように願いたい。選んだものの一番の願いは選ばれたものが選ばれたにふさわしい行為を行い続けることであることを任期の間中忘れないでもらいたいものである。
といっても活動をするのではなく雑誌や新聞を買い漁って自分なりの予測を立てその結果を確認するのが好き、というごく個人的な楽しみの中のひとつが選挙なのである。
私や母から見れば何がそんなに面白いのかまったくわからないが父は選挙の日はいつも遅くまでテレビを見ながらあの人は落ちた、この人は受かったと確認している。
そして今日、歴史が変わったのかもしれない総選挙があった。
結果は予想通り与党大敗・民主躍進であった。長い官僚主体の自民政権に嫌気を感じた有権者が下した決断だったのだろう。結果は概ね納得できるものだった。
私が選挙で投票する時、最後の決め手になるのは「顔」だ。美人だからとかハンサムだからということではない。その役職に就くにふさわしい顔をしているか否か、である。
例を言えば、総選挙の少し前に静岡県で県知事を選ぶ選挙があった。
すぐに手を上げたのは海野氏。元参議院議員である。その後自民党・共産党・民主党推薦の候補が立ち四人で選挙戦が行われた。
顔ぶれを見たときに私は「自民党は間違ったな」と感じた。自民党は女性候補であったが申し訳ないが彼女の顔は自治体のトップの顔ではない。たとえこの先自民党が盛り返しても私はこの人を知事に選ぶことは絶対に無いだろう、と思った。
共産党推薦の候補は申し訳ないが勝てる要素が無い。今はあくまで自民か民主の争う時代だ。共産はどちらとも違う完全野党でありこの党が政権をとることは無い。そうなれば自治体の顔としてトップに立つのは不具合だ。彼の場合は顔以前にその問題で私の中で候補から外れた。
残るのは海野氏と民主推薦の川勝氏だ。正直顔で選ぶ私的にはどちらでもかまわないな~という感じだった。似たり寄ったりの2択しかないからそれは仕方ない。
だから父には川勝氏以外に入れることは自民を応援することと同じだといわれ自民党には勝たせたくないから川勝氏にしようかな、とも思った。
結果からいえば私は海野氏に入れた。自民に勝たせるのは嫌だったが割れないことで民主の圧倒勝利にもしたくなかった。とりあえず背後が無いという意味で海野氏にしたわけだ。理想は民主が自民に競り勝つが過半数には行かない、というものだった。民主が割れて自民が逃げ勝つという最悪な結果になることも考えられるがその時はまぁあきらめようというわけだ。
そうして開票してみたらまさに私の希望通りの結果になっていた。民主と自民が約4割、海野氏が2割で民主が勝ったが過半数には到達できなかった。川勝氏は自分は勝ったが自分以外に入れた人数が多いことを自覚するだろうし、この結果でよかったのだと思った。
そして総選挙である。
私の投票は小選挙区では生きて、比例区では死に票になった。
自民か民主かの小選挙はともかく比例は民主が大勝ちしそうだったのでそれ以外の野党に投票しようと考えたのだ。当初は共産に入れるつもりだったが共産は比例では議席が取れそうであったしできればそれ以外の党にも議席を取ってほしかったので直前に変更した。そして同じように考えた人は多かったのかその党はちゃんと1議席取れるだけの得票を取ったのだ。…しかし結局のところ議席は無かった。小選挙と比例と重複する場合は小選挙区で1割以上の得票が必要、という条件が結局票を無駄にすることになったのだ。
いったいどのくらいの有権者がその条件を知っていただろう。選挙のルールくらい知っておくべきだ、といわれるかもしれないが今のような小選挙では大きな力を持つ党が絶対的に有利だ。それ以外の小さい政党に議席を与えるとするなら個人の元々の名声が高いかもしくは比例でしかまずありえない。その比例の結果が小選挙区の結果によってはじかれてしまうなら最初から小選挙区には出馬するな、といっているようなものである。なんとなくこれは納得できない決まりである。
これは今更言っても仕方無いことなのだ。しかし議員の定数を削減しようという動きがある今選挙のやり方をもう一度見直しする必要があると思う。
そしてどういう時流にせよ今回の総選挙で選ばれた議員の方々には各地元の有権者の意思に従ってより良い社会を作るような政策に奔走してほしい。まかり間違っても互いの足を引っ張り醜い泥仕合を演じることは……もう二度と無いように願いたい。選んだものの一番の願いは選ばれたものが選ばれたにふさわしい行為を行い続けることであることを任期の間中忘れないでもらいたいものである。
便利と不便利と・・・
2009年8月22日 雑記インターネット社会は活用方法を誤らなければかなり便利な世界である。
自宅にいながら世界中で起こっている事象を知ることができるのだから。
何か知りたいことがあればネットで検索をする、それが習慣になりつつある。
しかしながらそれはあくまでも世間の話題に挙がっている事象だけだったのだと知ることになった。
何でそんなことをしようと思ったのかは正直わからない。たぶん暇だったのだろう。ネットの検索ワードに自分の名前を入れてみたのだ。
私の名前は音では珍しくないが漢字になるとあまり無い名前だ。検索して何が知りたかったわけでもないがななんとなくそんなことをしてみたのだ。
結果を言えば何もヒットしなかった。私の本名に係る個人的なことはネットの世界には何も無いのだと知った。まぁそれは良いことだと思えたので結果はそれなりに満足だった。
続けて私は親友のMさんの名前を入れてみた。こちらは姓名も漢字も珍しくない名前なので私と違ってヒットした。同名のデザイナーがいたりハンドルネームが似ている人のサイトが引っかかったり…いろいろ見て回るのは面白かった。
それから次々と自分の知っている名前を検索ワードに入れてみると、私のようにまったく引っかからないほうが珍しいようで何かしらの反応がある場合が多かった。
しかしほとんどは別人である。本名でネットに本人の情報があったのは40人ほど調べて3人しかいなかった。
そのうちの一人はかつてある雑誌でライターをしていたためだった。これは私も知っていたがまさか本名で書いていたとは思わなかった。
主に読者のブログの感想に引っかかるのだが、熱心なファンと雑誌にはあわないと拒否する読者の両極端が面白かった。その雑誌に関して某○ちゃんねるのスレッドがあるのだがその中では彼女の当時の職場や家族のことまで書いてあって気分が悪かった。別に共感できない記事があっても作者の人格や環境まで否定・非難する必要は無いと思うのだが世の中にはそういった人間も多くいるのだと残念に思ったりした。
こういう現実を知るとネットの中で本名が知れることが無いほうがいいと思う。
ネットはあくまでバーチャルな世界。現実と虚構が渦巻いている。現実の自分なんて必要ない。現実だけで自分をもてあましているのにネットまで苦しめられたくない。
情報を調べるときもう少し詳しくならないかな~と思うこともあるが日常身の回りのことくらいは曖昧のままでよいのかもしれない、そうあってほしいと願わずにはいられない出来事だった。
自宅にいながら世界中で起こっている事象を知ることができるのだから。
何か知りたいことがあればネットで検索をする、それが習慣になりつつある。
しかしながらそれはあくまでも世間の話題に挙がっている事象だけだったのだと知ることになった。
何でそんなことをしようと思ったのかは正直わからない。たぶん暇だったのだろう。ネットの検索ワードに自分の名前を入れてみたのだ。
私の名前は音では珍しくないが漢字になるとあまり無い名前だ。検索して何が知りたかったわけでもないがななんとなくそんなことをしてみたのだ。
結果を言えば何もヒットしなかった。私の本名に係る個人的なことはネットの世界には何も無いのだと知った。まぁそれは良いことだと思えたので結果はそれなりに満足だった。
続けて私は親友のMさんの名前を入れてみた。こちらは姓名も漢字も珍しくない名前なので私と違ってヒットした。同名のデザイナーがいたりハンドルネームが似ている人のサイトが引っかかったり…いろいろ見て回るのは面白かった。
それから次々と自分の知っている名前を検索ワードに入れてみると、私のようにまったく引っかからないほうが珍しいようで何かしらの反応がある場合が多かった。
しかしほとんどは別人である。本名でネットに本人の情報があったのは40人ほど調べて3人しかいなかった。
そのうちの一人はかつてある雑誌でライターをしていたためだった。これは私も知っていたがまさか本名で書いていたとは思わなかった。
主に読者のブログの感想に引っかかるのだが、熱心なファンと雑誌にはあわないと拒否する読者の両極端が面白かった。その雑誌に関して某○ちゃんねるのスレッドがあるのだがその中では彼女の当時の職場や家族のことまで書いてあって気分が悪かった。別に共感できない記事があっても作者の人格や環境まで否定・非難する必要は無いと思うのだが世の中にはそういった人間も多くいるのだと残念に思ったりした。
こういう現実を知るとネットの中で本名が知れることが無いほうがいいと思う。
ネットはあくまでバーチャルな世界。現実と虚構が渦巻いている。現実の自分なんて必要ない。現実だけで自分をもてあましているのにネットまで苦しめられたくない。
情報を調べるときもう少し詳しくならないかな~と思うこともあるが日常身の回りのことくらいは曖昧のままでよいのかもしれない、そうあってほしいと願わずにはいられない出来事だった。
中国に住んでいる高校時代の部活仲間が帰国していると言うことで、久しぶり集合がかかった。少々迷ったが久々に帰国した彼女に会いたくて参加することにした。
集まったのは先輩4人、同学年4人、後輩1人の計9人。
3年ほど前にも集まったがその時よりも若干人数が多い。お盆時で帰省している人がいたからかもしれない。
高校時代は思い出す限り私にとっては一番平和な時代だ。
良かった、とは言わない。十代特有の悩み多い時代である。今から思えば些細なことでも生きていけないと思い込むほど苦しんでいた頃である。
それでも今になって思い出すにはあの時代は私にとって平和だ。苦しかった反面自らの身の置き所を持てたと思える場所があったからだ。
小学校から高校時代まで学校・学年・クラスという枠に苦しめられてきた。たまたま同じ学校、たまたま同じ学年、たまたま同じクラスになった、ただそれだけでどうして枠に括りこめられなければならないのだろう。日頃は人のことをバカにし毛嫌いし無視しているくせに何かあれば『クラスメートなのだから協力するのが当然でしょ』と言われる。自らの人格を否定されてなおなぜ美しき協調性を演じなければならないのだろう。
私は優等生であったからずいぶんと長くその役を演じてきた。面倒ごとになるとすり寄いへつらってくる連中の尻ぬぐいをしてきた。事が片付けば手のひらを返されるのも知りながら・・・
自らと周囲の取り巻く矛盾に徐々に狂ってきたのだろう、中学時には精神を病んでいた。病んでいるときは幸せである。なぜなら己の見苦しい姿を自覚しないから。真に苦しむのはその事実を自ら認識し恥じたときである。己は駄目な人間だ、壊れた欠陥品だ・・・その認識をその後ずっと持ち続けることになる。
高校に入った頃は自分が壊れていることを認識していたから自ら他人と距離を置く生活をした。幸いなことに進学校である。他人はどうあれ自分だけはよくありたいを言う人間が多かったためか当初は比較的穏やかだった。
しかし2年になり文系理系と分かれると状況は変わる。私は文系だったため教室内に女子の比率が高まったのだ。少数であったときは集団はできなかったがある程度の数になると仕切りたがりが出てきて集団化を求めるようになる、女とはそういう性質があるらしい。
必要以上に他人と関わりを持ちたくない私はそうなるともう耐えられない。結局授業以外の時間は教室から立ち去るようになっていった。
逃げた場所は部室だった。本来は部活動以外の時間に居てはいけない場所だったが私は登校したらまず部室に行きチャイムが鳴る直前に午前の授業道具を持って教室に行く、終わると道具を持って部室に行き昼休みを過ごす、午後のチャイムの直前に授業道具を持って教室に行き終わると部室に戻る・・・という生活をしていた。
私にとって部室は平穏な場所だった。必要以上に干渉されることもなく一人で居たければいることもでき話し相手が欲しければそういった相手も居る。本を読んだりゲームをしたり先輩たちの話を聞いたり・・・そして時々部活動をしたり無理に何かを求められることのない場所だったのだ。
過去を振り返るときできれば悪いことは避けたいものである。だから高校時代を思い出すとき大抵は部室の光景だ。何となくゆったりと時間が流れていたような気がする空間だ。そういう場所にを思わせてくれた私以外の構成員にはそういう意味でとても感謝している。個々にはそれぞれ違った思いがあるがトータル的にはそうである。
だから部活のメンバーたちが集まろうという話を聞くとちょっと心が浮き立つ。あの空間の名残をまた感じ取れるかもしれないと期待するのかもしれない。
大学そして社会人となって最早そういった場所を見つけることができなかったから郷愁に近い思いがあるのかもしれない。
しかしながら同時にものすごく不安に襲われる。
私はすでに高校生でなくそしてそれは他のメンバーも同じなのだ。それぞれに違う空間で違うものを見て違うことを経験してきた。時間が経つ中で人間関係そのものが変わってしまった仲間もいる。
あれは私の中で描いた幻だったのでは・・・と思ってしまったらそれはとてもたまらないだろう。そうでなくても色んな意味で生々しい現実を突きつけられるのも辛いことだ。
私自身はそれほど環境が変わっていないが殆どの人々は最早家庭を持ち子供がいて日々の現実を堅実に生きている。同じ時間を過ごしていたはずなのに自分は時間を無駄にしてきたのでは・・・と感じてしまったらそれはとても辛い。
2年ほど前にも一度集まらないかという話があったけれどそれを断ったのはそういった思いがあったからだ。その時は他の人も集まらなかったらしく結局飲み会は開かれなかった。
集会を企画した我が親友には苦労をかけてしまって申し訳なく思ったがこれはもう仕方がない。
それでも今回は参加した。中国に行った彼女に会える数少ない機会だったから。
最後にあったときより随分やせていて心配したが本人は意外に元気そうだった。マイペース加減も相変わらずで何となく案じていた気分が苦笑に変わってしまうのが懐かしい感じがした。
他のメンバーとも乾杯しひとしきり盛り上がり久々の会話を楽しんだ。が、2時間ほどで早々に退席してきた。
翌日に遠出する予定が合ったため最初から途中で抜けることは言っていたが、正直長時間は無理だろうと言う思惑は最初からあった。私的には集まったメンバーがとりあえず皆元気でやっていることさえ確認できればそれで満足なのだ。店を出たときにはぼろが出ないうちに退散できて安堵の息を吐いた位だ。
懐かしむ過去とそこにいた人々との現在の邂逅―――それは甘いようで同時に切なく悲しい香りを持っている。酔うことができれば幸せだろうが溺れることができるほどもう若くはない。
次に再び集うことがあるのかわからないが、その時はまた同じように悩むに違いない。自分は了見が狭い人間だと思いながら・・・
集まったのは先輩4人、同学年4人、後輩1人の計9人。
3年ほど前にも集まったがその時よりも若干人数が多い。お盆時で帰省している人がいたからかもしれない。
高校時代は思い出す限り私にとっては一番平和な時代だ。
良かった、とは言わない。十代特有の悩み多い時代である。今から思えば些細なことでも生きていけないと思い込むほど苦しんでいた頃である。
それでも今になって思い出すにはあの時代は私にとって平和だ。苦しかった反面自らの身の置き所を持てたと思える場所があったからだ。
小学校から高校時代まで学校・学年・クラスという枠に苦しめられてきた。たまたま同じ学校、たまたま同じ学年、たまたま同じクラスになった、ただそれだけでどうして枠に括りこめられなければならないのだろう。日頃は人のことをバカにし毛嫌いし無視しているくせに何かあれば『クラスメートなのだから協力するのが当然でしょ』と言われる。自らの人格を否定されてなおなぜ美しき協調性を演じなければならないのだろう。
私は優等生であったからずいぶんと長くその役を演じてきた。面倒ごとになるとすり寄いへつらってくる連中の尻ぬぐいをしてきた。事が片付けば手のひらを返されるのも知りながら・・・
自らと周囲の取り巻く矛盾に徐々に狂ってきたのだろう、中学時には精神を病んでいた。病んでいるときは幸せである。なぜなら己の見苦しい姿を自覚しないから。真に苦しむのはその事実を自ら認識し恥じたときである。己は駄目な人間だ、壊れた欠陥品だ・・・その認識をその後ずっと持ち続けることになる。
高校に入った頃は自分が壊れていることを認識していたから自ら他人と距離を置く生活をした。幸いなことに進学校である。他人はどうあれ自分だけはよくありたいを言う人間が多かったためか当初は比較的穏やかだった。
しかし2年になり文系理系と分かれると状況は変わる。私は文系だったため教室内に女子の比率が高まったのだ。少数であったときは集団はできなかったがある程度の数になると仕切りたがりが出てきて集団化を求めるようになる、女とはそういう性質があるらしい。
必要以上に他人と関わりを持ちたくない私はそうなるともう耐えられない。結局授業以外の時間は教室から立ち去るようになっていった。
逃げた場所は部室だった。本来は部活動以外の時間に居てはいけない場所だったが私は登校したらまず部室に行きチャイムが鳴る直前に午前の授業道具を持って教室に行く、終わると道具を持って部室に行き昼休みを過ごす、午後のチャイムの直前に授業道具を持って教室に行き終わると部室に戻る・・・という生活をしていた。
私にとって部室は平穏な場所だった。必要以上に干渉されることもなく一人で居たければいることもでき話し相手が欲しければそういった相手も居る。本を読んだりゲームをしたり先輩たちの話を聞いたり・・・そして時々部活動をしたり無理に何かを求められることのない場所だったのだ。
過去を振り返るときできれば悪いことは避けたいものである。だから高校時代を思い出すとき大抵は部室の光景だ。何となくゆったりと時間が流れていたような気がする空間だ。そういう場所にを思わせてくれた私以外の構成員にはそういう意味でとても感謝している。個々にはそれぞれ違った思いがあるがトータル的にはそうである。
だから部活のメンバーたちが集まろうという話を聞くとちょっと心が浮き立つ。あの空間の名残をまた感じ取れるかもしれないと期待するのかもしれない。
大学そして社会人となって最早そういった場所を見つけることができなかったから郷愁に近い思いがあるのかもしれない。
しかしながら同時にものすごく不安に襲われる。
私はすでに高校生でなくそしてそれは他のメンバーも同じなのだ。それぞれに違う空間で違うものを見て違うことを経験してきた。時間が経つ中で人間関係そのものが変わってしまった仲間もいる。
あれは私の中で描いた幻だったのでは・・・と思ってしまったらそれはとてもたまらないだろう。そうでなくても色んな意味で生々しい現実を突きつけられるのも辛いことだ。
私自身はそれほど環境が変わっていないが殆どの人々は最早家庭を持ち子供がいて日々の現実を堅実に生きている。同じ時間を過ごしていたはずなのに自分は時間を無駄にしてきたのでは・・・と感じてしまったらそれはとても辛い。
2年ほど前にも一度集まらないかという話があったけれどそれを断ったのはそういった思いがあったからだ。その時は他の人も集まらなかったらしく結局飲み会は開かれなかった。
集会を企画した我が親友には苦労をかけてしまって申し訳なく思ったがこれはもう仕方がない。
それでも今回は参加した。中国に行った彼女に会える数少ない機会だったから。
最後にあったときより随分やせていて心配したが本人は意外に元気そうだった。マイペース加減も相変わらずで何となく案じていた気分が苦笑に変わってしまうのが懐かしい感じがした。
他のメンバーとも乾杯しひとしきり盛り上がり久々の会話を楽しんだ。が、2時間ほどで早々に退席してきた。
翌日に遠出する予定が合ったため最初から途中で抜けることは言っていたが、正直長時間は無理だろうと言う思惑は最初からあった。私的には集まったメンバーがとりあえず皆元気でやっていることさえ確認できればそれで満足なのだ。店を出たときにはぼろが出ないうちに退散できて安堵の息を吐いた位だ。
懐かしむ過去とそこにいた人々との現在の邂逅―――それは甘いようで同時に切なく悲しい香りを持っている。酔うことができれば幸せだろうが溺れることができるほどもう若くはない。
次に再び集うことがあるのかわからないが、その時はまた同じように悩むに違いない。自分は了見が狭い人間だと思いながら・・・
昨日のことであるが、早朝静岡県内を激しい地震の揺れが襲った。
静岡県は50年以上前から大規模な地震が起こるといわれ続けているため比較的地震被害には対応されている地域である。そのため震度6以上を記録したのにも係らず他地域で起こった同規模の地震に比べ被害が少なかったようだ。備えあれば憂いなしの良い見本になったのかもしれない。
私は人生の8割以上の時間を静岡県内で過ごしている。確かに地震は頻繁に起こっている気がする。電気の笠がゆれる程度の地震は日常茶飯事かもしれない。
しかしながら大地震が起こるといわれ続けている割に地震で驚いたと思う経験は少ない。今回ほど揺れたと実感できる地震は覚えている限り小学生の低学年までさかのぼらなくてはならない。実に30年近く前の話である。
私の通う小学校は山の麓にあった。700mほどの高さしかないが小学校の北側の窓からはほぼ山しか見えないという田舎の小学校だった。
確か午後のことだったと思う。授業中に何か大きな音が聞こえた。シャベルカーやダンプカーが立てる轟音と少し似ているが響き方が違うその音は徐々に大きく近づいてくる気がした。何の音だろうと教室内がざわめき出した頃にその揺れはやってきた。
山鳴り―――言葉は知っていても初めてその存在を体感した瞬間だった。
その後のことはあまり覚えていない。たぶん今回のようにそれほど大きな被害はなかったはずだ。ただあの時始めて地震が怖いと思った、その経験は忘れない。まだ幼かったからなおさらである。
さて今回の地震は早朝に起こった。
5時7分頃―――まだ就寝中である。といってもあまり眠りが深いほうではなく起床時間に近いこの時間の私はまどろんでいたといってよい状態だった。
そして私は再び聞いた―――北方から近づく音を。
震源地は海である。海は南の方角にある。でも確かに地響きは北側から聞こえてきた。小学生の頃に聞いたよりずっと低音で小さかったが間違いないと思う。私の家は小学校よりより多少南側にあり山からは離れているので轟音とまでは行かなかったのだろう。
ただまだ起きていない頭ではその音が何かは判別できなかった。何の音だろう?とぼんやり思っているうちに揺れが来た。
あぁそうか、地震だったのか…横になったまま意外なほどに落ち着いて思い出した私がいた。
私の部屋の西側は天井まですべて本棚である。私は横になったままその本棚をぼんやり見つめていた。
あの天井に近いあたりから本が1冊でも落ちてきたら避難しよう……漠然とそんなことを思いながら。
しかし本は落ちてくることはなく、揺れも落ち着いたので私は結局いつもの時間まで起きる事はしなかった。
今地区の班長である両親は地震直後に起き出して近所中の安全確認をしていたのに比べてなんとも使えない子供である。
ただ…私にも言い分がある。
実は昨日は私の誕生日だった。いまさら祝う年齢でもないが何もこんな日に面倒なことが起きなくてもいいんじゃないか、と思ったのだ。一応新しい節目の日の朝である。何事もなかったように過ごしたいと思ってはいけないだろうか?
けたたましく地震の情報を伝えるニュースを横目にそんな個人的な心情で「日常」を過ごしたのだった。
静岡県は50年以上前から大規模な地震が起こるといわれ続けているため比較的地震被害には対応されている地域である。そのため震度6以上を記録したのにも係らず他地域で起こった同規模の地震に比べ被害が少なかったようだ。備えあれば憂いなしの良い見本になったのかもしれない。
私は人生の8割以上の時間を静岡県内で過ごしている。確かに地震は頻繁に起こっている気がする。電気の笠がゆれる程度の地震は日常茶飯事かもしれない。
しかしながら大地震が起こるといわれ続けている割に地震で驚いたと思う経験は少ない。今回ほど揺れたと実感できる地震は覚えている限り小学生の低学年までさかのぼらなくてはならない。実に30年近く前の話である。
私の通う小学校は山の麓にあった。700mほどの高さしかないが小学校の北側の窓からはほぼ山しか見えないという田舎の小学校だった。
確か午後のことだったと思う。授業中に何か大きな音が聞こえた。シャベルカーやダンプカーが立てる轟音と少し似ているが響き方が違うその音は徐々に大きく近づいてくる気がした。何の音だろうと教室内がざわめき出した頃にその揺れはやってきた。
山鳴り―――言葉は知っていても初めてその存在を体感した瞬間だった。
その後のことはあまり覚えていない。たぶん今回のようにそれほど大きな被害はなかったはずだ。ただあの時始めて地震が怖いと思った、その経験は忘れない。まだ幼かったからなおさらである。
さて今回の地震は早朝に起こった。
5時7分頃―――まだ就寝中である。といってもあまり眠りが深いほうではなく起床時間に近いこの時間の私はまどろんでいたといってよい状態だった。
そして私は再び聞いた―――北方から近づく音を。
震源地は海である。海は南の方角にある。でも確かに地響きは北側から聞こえてきた。小学生の頃に聞いたよりずっと低音で小さかったが間違いないと思う。私の家は小学校よりより多少南側にあり山からは離れているので轟音とまでは行かなかったのだろう。
ただまだ起きていない頭ではその音が何かは判別できなかった。何の音だろう?とぼんやり思っているうちに揺れが来た。
あぁそうか、地震だったのか…横になったまま意外なほどに落ち着いて思い出した私がいた。
私の部屋の西側は天井まですべて本棚である。私は横になったままその本棚をぼんやり見つめていた。
あの天井に近いあたりから本が1冊でも落ちてきたら避難しよう……漠然とそんなことを思いながら。
しかし本は落ちてくることはなく、揺れも落ち着いたので私は結局いつもの時間まで起きる事はしなかった。
今地区の班長である両親は地震直後に起き出して近所中の安全確認をしていたのに比べてなんとも使えない子供である。
ただ…私にも言い分がある。
実は昨日は私の誕生日だった。いまさら祝う年齢でもないが何もこんな日に面倒なことが起きなくてもいいんじゃないか、と思ったのだ。一応新しい節目の日の朝である。何事もなかったように過ごしたいと思ってはいけないだろうか?
けたたましく地震の情報を伝えるニュースを横目にそんな個人的な心情で「日常」を過ごしたのだった。
ぬかるみを歩くように
2009年8月11日 雑記器用な人間ではない。
むしろ不器用だと言うべきだ。
初対面で良い印象を抱かれることは殆どない。
取り立てて優れたところもない。
容姿も能力も技術も・・・自慢できることはなにもない。
どこまでも凡庸で地味な人間だ。
大きな不幸もないが幸運というものにも出会ったことはない。
眩しすぎる日差しにさらされることもないが真っ暗な闇を進み続けたわけでもない。
ごくごく変凡な道のり・・・それが私の人生。
むしろ不器用だと言うべきだ。
初対面で良い印象を抱かれることは殆どない。
取り立てて優れたところもない。
容姿も能力も技術も・・・自慢できることはなにもない。
どこまでも凡庸で地味な人間だ。
大きな不幸もないが幸運というものにも出会ったことはない。
眩しすぎる日差しにさらされることもないが真っ暗な闇を進み続けたわけでもない。
ごくごく変凡な道のり・・・それが私の人生。