フィギュアスケートは本当にスポーツなのか?
2010年3月28日 雑記採点競技についての問題点はそれが主観というか思惑によって左右されがちなことだ。思惑ーというか言ってみれば政治力、そのスポーツ世界の中での権力に振り回され結果本当ににそれが正しい順位・点数なのかと疑問を持たせる判定がでてしまうことにある。
採点競技は色々あるが、オリンピックの舞台において大きくその不正が取り上げられたのが、ソルトレイクオリンピックにおけるフィギュアスケートだ。ミスをした組が勝ちしなかった組が2位となり抗議しジャッジの不正があったと言うことで両者金メダルになった。
だがその当時の採点法ではミスがあるないで結果が決まるのではなかった。芸術性と技術性が別々に採点されその合計で決まっていたからミスをして技術点が下がっても芸術点がそれをカバーすれば勝てたのだ。
どちらかと言えば当時の騒動はフィギュア大国ロシアの勢いをそぎたい北米勢力との権力闘争に利用されたように思えて仕方ない。
その結果生まれたが新採点方だ。演技を全体的に審判が主観で決めるのではなく行ったエレメント一つ一つに得点をつけその合計で競おうという物だった。
それまでのように審判に覚えられないと点数がでないと言うことは少なくなり高い技術力を持った無名選手が突然上位に出てくるなんて事も起こるようになった。
トリノオリンピックの頃までは比較的この新採点方は上手く使われていたと思う。一度のミスが点数に響くというのは選手にはプレッシャーになっただろうが見ている素人にはわかりやすく説明をされて納得出来たからだ。点数が出やすい技ばかりになってしまうのは多少面白味に欠けた(一時女子はビールマンばかりやる選手が増えたり)がそれほど見ている感覚とずれた採点はなされていなかった。
しかし問題はその後だ。
見ている観客の感覚と採点が奇妙にずれを生じだしたのだ。
その結果、より難しい高度な技をやるよりも簡単な技をやった方が得、というスポーツでは本来あり得ない方向に動き出してしまったのだ。
おまけに審判による加点・減点の基準がわかりにくくまた一定しない。
同じ演技が同じ点数にならない時点でもおかしいが同じ技をして加点が付く選手と付かない選手がある一定の法則で見えだしてくるとこれは何か裏があるのではと勘ぐりたくなってきてしまう。ある意味全体評価の旧採点以上に審判の主観が浮き上がってしまうからだ。
旧採点がそれでも良かったのはある意味でジャッジが責任を持っていたことにある。各審判がその演技を演技全体の中ではっきりと何位と示したからだ。1票とか僅差で判断が分かれた場合には政治力が絡んでしまう事もあっただろうが、たいていの場合は見ている人とそれほど変わりのない判断が出されていたと思う。
しかし今の採点はそうじゃない。審判は採点に責任を持っているようには見えない。そもそもどの審判がこの採点をしたのか明らかにならない時点で責任は放棄されている。
また一つ一つのエレメントの採点においても勝たせたい選手には他より多めに加点をつけ、減点を減らせばいい。ある程度審判団に意志が通っていればみんな同じように「少しずつ」多くすることによって合計が「当然多く」なり、結果、審判団の総意でこの採点がなされた事になるからだ。各ジャッジ一人一人にその責任が負わされる心配がない。
もし加点が多すぎたのでは?と問われればそれは私だけじゃないと言えば良いだけのことだ。これではあまりにも無責任だ。
トリノで行われた世界選手権の結果に今とても失望している。
シングルで男女とも日本人が優勝という喜ばしい結果であるが、こんなに見て後味が悪いのであればこの先もう見るのを止めようかとも思ってくる。
選手達の責任ではないことは先に言う。大抵の選手は今できる精一杯を熱演してくれたと思う。それは素直にたたえたい。
しかしながらジャッジの一貫性のなさは呆れる以外ない。何故それほどのまで点数を調整しようとするのか。一人一人の選手それぞれの演技ではなく最初から枠を作りその枠内で調整しているようにしか見えない。選手のがんばりがその枠を超えることが決して出来なくなっている。これが本当にスポーツの姿なのだろうか?
これが現行のルールだから・・・ここ3年ほどに見られるよくわからない採点のたびにそう言う言葉が聞かれてきた。そしてまた今回も、そう言わざるを得ないだろうか?審判団やスケート協会にはあの会場の歓声とブーイングが聞こえないのだろうか?あの観客の反応こそが真実の結果だろう。
今回の世界選手権の男女シングルの結果について点数はともかく1位は日本人の二人であったことは間違いないと思う。しかし2位以下は違う。確実に違うと思う。それは実際の会場の雰囲気を見れば明らかだ。
ライブ以外のテレビ放映は都合良く編集されてしまいわからないかもしれない。でも探せばライブで流された物があるので是非見て欲しい。最早スポーツではなくなってしまった悲しい喜劇の姿を見ることが出来るはずだ。
採点競技は色々あるが、オリンピックの舞台において大きくその不正が取り上げられたのが、ソルトレイクオリンピックにおけるフィギュアスケートだ。ミスをした組が勝ちしなかった組が2位となり抗議しジャッジの不正があったと言うことで両者金メダルになった。
だがその当時の採点法ではミスがあるないで結果が決まるのではなかった。芸術性と技術性が別々に採点されその合計で決まっていたからミスをして技術点が下がっても芸術点がそれをカバーすれば勝てたのだ。
どちらかと言えば当時の騒動はフィギュア大国ロシアの勢いをそぎたい北米勢力との権力闘争に利用されたように思えて仕方ない。
その結果生まれたが新採点方だ。演技を全体的に審判が主観で決めるのではなく行ったエレメント一つ一つに得点をつけその合計で競おうという物だった。
それまでのように審判に覚えられないと点数がでないと言うことは少なくなり高い技術力を持った無名選手が突然上位に出てくるなんて事も起こるようになった。
トリノオリンピックの頃までは比較的この新採点方は上手く使われていたと思う。一度のミスが点数に響くというのは選手にはプレッシャーになっただろうが見ている素人にはわかりやすく説明をされて納得出来たからだ。点数が出やすい技ばかりになってしまうのは多少面白味に欠けた(一時女子はビールマンばかりやる選手が増えたり)がそれほど見ている感覚とずれた採点はなされていなかった。
しかし問題はその後だ。
見ている観客の感覚と採点が奇妙にずれを生じだしたのだ。
その結果、より難しい高度な技をやるよりも簡単な技をやった方が得、というスポーツでは本来あり得ない方向に動き出してしまったのだ。
おまけに審判による加点・減点の基準がわかりにくくまた一定しない。
同じ演技が同じ点数にならない時点でもおかしいが同じ技をして加点が付く選手と付かない選手がある一定の法則で見えだしてくるとこれは何か裏があるのではと勘ぐりたくなってきてしまう。ある意味全体評価の旧採点以上に審判の主観が浮き上がってしまうからだ。
旧採点がそれでも良かったのはある意味でジャッジが責任を持っていたことにある。各審判がその演技を演技全体の中ではっきりと何位と示したからだ。1票とか僅差で判断が分かれた場合には政治力が絡んでしまう事もあっただろうが、たいていの場合は見ている人とそれほど変わりのない判断が出されていたと思う。
しかし今の採点はそうじゃない。審判は採点に責任を持っているようには見えない。そもそもどの審判がこの採点をしたのか明らかにならない時点で責任は放棄されている。
また一つ一つのエレメントの採点においても勝たせたい選手には他より多めに加点をつけ、減点を減らせばいい。ある程度審判団に意志が通っていればみんな同じように「少しずつ」多くすることによって合計が「当然多く」なり、結果、審判団の総意でこの採点がなされた事になるからだ。各ジャッジ一人一人にその責任が負わされる心配がない。
もし加点が多すぎたのでは?と問われればそれは私だけじゃないと言えば良いだけのことだ。これではあまりにも無責任だ。
トリノで行われた世界選手権の結果に今とても失望している。
シングルで男女とも日本人が優勝という喜ばしい結果であるが、こんなに見て後味が悪いのであればこの先もう見るのを止めようかとも思ってくる。
選手達の責任ではないことは先に言う。大抵の選手は今できる精一杯を熱演してくれたと思う。それは素直にたたえたい。
しかしながらジャッジの一貫性のなさは呆れる以外ない。何故それほどのまで点数を調整しようとするのか。一人一人の選手それぞれの演技ではなく最初から枠を作りその枠内で調整しているようにしか見えない。選手のがんばりがその枠を超えることが決して出来なくなっている。これが本当にスポーツの姿なのだろうか?
これが現行のルールだから・・・ここ3年ほどに見られるよくわからない採点のたびにそう言う言葉が聞かれてきた。そしてまた今回も、そう言わざるを得ないだろうか?審判団やスケート協会にはあの会場の歓声とブーイングが聞こえないのだろうか?あの観客の反応こそが真実の結果だろう。
今回の世界選手権の男女シングルの結果について点数はともかく1位は日本人の二人であったことは間違いないと思う。しかし2位以下は違う。確実に違うと思う。それは実際の会場の雰囲気を見れば明らかだ。
ライブ以外のテレビ放映は都合良く編集されてしまいわからないかもしれない。でも探せばライブで流された物があるので是非見て欲しい。最早スポーツではなくなってしまった悲しい喜劇の姿を見ることが出来るはずだ。
新しいGパンを買った。
昨年の夏から始めた減量でだいぶサイズダウンしていたことを知っていたが、緩いままで今まで使っていた。ベルトを使えばまだ履けるし・・・と。
しかし会社に履いていくものは色も褪せこれからの季節に履き続けるにはかなりさわりがあると思われる。ここらで新しいものを、と温かくなったこの日買いに行くことにした。
それにしてもニュースなどで聞いていたがここしばらくで随分物の値段が下がった。
結局買ったGパンは1,500円弱だったが、なんとなく「高い」と思えてしまった。ニュースで800円だの600円台だの聞いていたせいだ。1,500円だって昔から見れば安かったのに・・・なかなか人間は満足できない生き物だ。
しかしGパンのウエストサイズが8センチも下がった事には驚いた。痩せた意識はあったが数字で改めて知ると何となく感動する。
なかなか生きていて日頃の成果という物を見ることは難しい事が多い。その中でこういう事を実感を出来たことはちょっと嬉しかった。
昨年の夏から始めた減量でだいぶサイズダウンしていたことを知っていたが、緩いままで今まで使っていた。ベルトを使えばまだ履けるし・・・と。
しかし会社に履いていくものは色も褪せこれからの季節に履き続けるにはかなりさわりがあると思われる。ここらで新しいものを、と温かくなったこの日買いに行くことにした。
それにしてもニュースなどで聞いていたがここしばらくで随分物の値段が下がった。
結局買ったGパンは1,500円弱だったが、なんとなく「高い」と思えてしまった。ニュースで800円だの600円台だの聞いていたせいだ。1,500円だって昔から見れば安かったのに・・・なかなか人間は満足できない生き物だ。
しかしGパンのウエストサイズが8センチも下がった事には驚いた。痩せた意識はあったが数字で改めて知ると何となく感動する。
なかなか生きていて日頃の成果という物を見ることは難しい事が多い。その中でこういう事を実感を出来たことはちょっと嬉しかった。
我が家には暖房器具が炬燵しかない。
一応エアコンはあるんだがこれは夏しか使わない。
その為冬になると家族皆炬燵に集う事になる。
その炬燵の異変に気づいたのは正月が過ぎてしばらくした頃だ。電源を入れたのに温かくならない時があるのだ。
原因はすぐにわかった。炬燵のコンセントプラグとコードのつなぎ目が緩くなっていたのだ。
完全に切れているわけではないので接触が悪い時だけ炬燵が温かくならない。そのため当面はそのつなぎ目をテープで固定してしのぐことにした。父の友人に元技術の先生がいるのでそのうちに直してもらうつもりだった。
しかしながらなかなか予定が合わずそのままずるずると時が経った。
そしてようやく昨日元先生が家にやってきた。様子を見て必要なものを買いに行くと手早く直してゆく。この程度なら誰でも出来ますよ、と言うけれどなかなかやってみようとは思えない。やっているところを見てる分には簡単そうだけど・・・
1時間も掛からないで先生は作業を終えて帰って行った。帰り際先生が笑いながらちょっと怖いことを言った。
「火事にならなくて良かったですね」と。
言われた意味がわからずコンセントのあったところをよく見ると床に5センチほどの焦げ痕を見つけた。どうやら緩くなったコードの作ったものらしい。漏電していたと言うことだ。
しかもその痕は炬燵敷き布団の下にあった。もし発火していたら燃えるものはあったわけだ。焦がした程度で済んで良かった。
些細なことでも見逃していると大きな危険になることもある、ということを理解させる出来事だった。
前回の記事に幾つかコメント頂きました。
これからの対応の参考にさせて頂きます。
どうもありがとうございました。
一応エアコンはあるんだがこれは夏しか使わない。
その為冬になると家族皆炬燵に集う事になる。
その炬燵の異変に気づいたのは正月が過ぎてしばらくした頃だ。電源を入れたのに温かくならない時があるのだ。
原因はすぐにわかった。炬燵のコンセントプラグとコードのつなぎ目が緩くなっていたのだ。
完全に切れているわけではないので接触が悪い時だけ炬燵が温かくならない。そのため当面はそのつなぎ目をテープで固定してしのぐことにした。父の友人に元技術の先生がいるのでそのうちに直してもらうつもりだった。
しかしながらなかなか予定が合わずそのままずるずると時が経った。
そしてようやく昨日元先生が家にやってきた。様子を見て必要なものを買いに行くと手早く直してゆく。この程度なら誰でも出来ますよ、と言うけれどなかなかやってみようとは思えない。やっているところを見てる分には簡単そうだけど・・・
1時間も掛からないで先生は作業を終えて帰って行った。帰り際先生が笑いながらちょっと怖いことを言った。
「火事にならなくて良かったですね」と。
言われた意味がわからずコンセントのあったところをよく見ると床に5センチほどの焦げ痕を見つけた。どうやら緩くなったコードの作ったものらしい。漏電していたと言うことだ。
しかもその痕は炬燵敷き布団の下にあった。もし発火していたら燃えるものはあったわけだ。焦がした程度で済んで良かった。
些細なことでも見逃していると大きな危険になることもある、ということを理解させる出来事だった。
前回の記事に幾つかコメント頂きました。
これからの対応の参考にさせて頂きます。
どうもありがとうございました。
昨夜遅く通りすがりの者様という方からコメントにてご意見を頂きました。
私の対応が悪くご不快にさせてしまったようです。大変申し訳ないと同時にコメントを頂きありがたく思います。
基本私はどこのブログでも現在はコメントをしておりません。日参しているブログもありますが一度もご挨拶をしたことは無かったですし今後も…おそらくしないかと思います。
そういった私の姿勢をもっと早くブログの中で公表しておくべきだったと反省しております。
そして私のブログに頂いたコメントについてはやはり何か返答ないしお礼をするべきだったのでしょう。至らない対応で大変申し訳なく思います。
私がネットを始めたのは1993年2月でした。あるHPの会員になりたくてノートPCを購入したところから始まりました。
1年ほどで自分のサイトを持ち同じジャンルのサイトの方々と交流を持つようになり、今まで身近にそういった人を探すのが難しかったのにネットと言うのは便利で良いと当初は思っていました。
ところが2~3年ほど経った頃、別の方の掲示板(当時はブログと言うものはなかった気がします。交流はたいてい掲示板でした)でかなり激しいやり取りが勃発し今で言う炎上のような状態になったのです。サイト主様の書かれた言葉を取り違えた方がいて激しい感情のやり取りに発展してしまったのです。
文字やイラストなどでのやり取りしかないネット環境で起こるべくして起こったことなのかもしれませんが、そういった経験は初めてだったので私は非常に恐怖を感じました。
結局その後しばらくして私は自分の掲示板をそしてサイトも止めることにしました。自分が知らないうちに誰かを傷つけてしまうかもしれないことが怖かったからです。
それ以降よそ様のサイトに訪問しても基本的にコメントはしないようになりました。(若干例外はありますが。)
昨年ブログをやってみようと思ったのは、自分の記録管理のためでした。あれがいつのことだったのか思い出せない…というようなことが多くなってきたので前を思い返すのに便利ではないかと思ったからです。
そのため当初はコメント欄はなしにするつもりでした。
しかしながらそうしなかったのは読まれた方のご意見を書ける場所があったほうがいいのでは思ったからです。自分の思ったことや感じたことを書いていますが、書き方が悪く誰かを傷つけてしまった時とかあるいは思い違い勘違いなどの内容の誤りがあるときそれを指摘できる場所があったほうがいいのではないか、と。
もしそういったご指摘を受けたとき記事を書き直したりあるいは取り下げたりできるようにコメント欄を残したのです。(私はメールアドレスを公開していないので…)
訪れて下さった方のご挨拶コメントに対して無視したような感じになってしまったことは大変申し訳なく思います。コメントを頂いたことはうれしかったのでそのように翌日の記事にでも書くべきでした。
今後は頂いたコメントに対して何か見えるような形で対応したいと思います。
通りすがりの者様ご意見大変ありがとうございます。もしよろしければまた何か私の至らないところがありましたらご意見いただきたいと思います。
私の対応が悪くご不快にさせてしまったようです。大変申し訳ないと同時にコメントを頂きありがたく思います。
基本私はどこのブログでも現在はコメントをしておりません。日参しているブログもありますが一度もご挨拶をしたことは無かったですし今後も…おそらくしないかと思います。
そういった私の姿勢をもっと早くブログの中で公表しておくべきだったと反省しております。
そして私のブログに頂いたコメントについてはやはり何か返答ないしお礼をするべきだったのでしょう。至らない対応で大変申し訳なく思います。
私がネットを始めたのは1993年2月でした。あるHPの会員になりたくてノートPCを購入したところから始まりました。
1年ほどで自分のサイトを持ち同じジャンルのサイトの方々と交流を持つようになり、今まで身近にそういった人を探すのが難しかったのにネットと言うのは便利で良いと当初は思っていました。
ところが2~3年ほど経った頃、別の方の掲示板(当時はブログと言うものはなかった気がします。交流はたいてい掲示板でした)でかなり激しいやり取りが勃発し今で言う炎上のような状態になったのです。サイト主様の書かれた言葉を取り違えた方がいて激しい感情のやり取りに発展してしまったのです。
文字やイラストなどでのやり取りしかないネット環境で起こるべくして起こったことなのかもしれませんが、そういった経験は初めてだったので私は非常に恐怖を感じました。
結局その後しばらくして私は自分の掲示板をそしてサイトも止めることにしました。自分が知らないうちに誰かを傷つけてしまうかもしれないことが怖かったからです。
それ以降よそ様のサイトに訪問しても基本的にコメントはしないようになりました。(若干例外はありますが。)
昨年ブログをやってみようと思ったのは、自分の記録管理のためでした。あれがいつのことだったのか思い出せない…というようなことが多くなってきたので前を思い返すのに便利ではないかと思ったからです。
そのため当初はコメント欄はなしにするつもりでした。
しかしながらそうしなかったのは読まれた方のご意見を書ける場所があったほうがいいのでは思ったからです。自分の思ったことや感じたことを書いていますが、書き方が悪く誰かを傷つけてしまった時とかあるいは思い違い勘違いなどの内容の誤りがあるときそれを指摘できる場所があったほうがいいのではないか、と。
もしそういったご指摘を受けたとき記事を書き直したりあるいは取り下げたりできるようにコメント欄を残したのです。(私はメールアドレスを公開していないので…)
訪れて下さった方のご挨拶コメントに対して無視したような感じになってしまったことは大変申し訳なく思います。コメントを頂いたことはうれしかったのでそのように翌日の記事にでも書くべきでした。
今後は頂いたコメントに対して何か見えるような形で対応したいと思います。
通りすがりの者様ご意見大変ありがとうございます。もしよろしければまた何か私の至らないところがありましたらご意見いただきたいと思います。
昔は良かったと言いたくないが・・・
2010年3月4日 雑記 コメント (2)ここ数日、動画サイトでフィギュアスケートを見ている。
切っ掛けはバンクーバーオリンピックのエキシビションだった。
私がフィギュアスケートが好きな理由の一つにエキシビションがあげられる。競技の緊張感から解放された選手達が自由の演じてくれるおまけではある。試合では見られないスケートの魅力が垣間見れるのも良い。
今回はオリンピックと言うことでエキシビションもいつも以上に面白いだろうと期待して見ていた。
ところが・・・実際の演技は期待はずれというか、はっきり言ってつまらない内容だった。
銀メダルを取ったロシアのプルシェンコ氏が早々に出てきて会場を沸かせたもののその後はどんどん盛り下がっていく。あげくにオリンピックのエキシビションなのに金メダリストにアンコールすら起こらない。最後に地元のカナダ金メダリストが登場し何とか会場も沸いたが、それでも今まで見た中で最も盛り上がらなかったエキシビションだったように思えた。
あまりにも消化不良だったため昔の映像を見て満足しようと動画サイトに行ったのだ。
ヤグディン氏、キャンデロロ氏、スルツカヤ氏、伊藤みどり氏など往年の名選手達そして今回も参加したプルシェンコ氏の数々の映像を見て楽しんだ。なんというか昨今にはない疾走感や躍動感そして華やかさを味わった。
そして動画を幾つも見ている内に「プルシェンコ氏が言っていたのはこういう事だったのかな・・・」と自分の中にすとんと落ちてきた考えがあった。
それはオリンピック中に氏が言った「男子であれば4回転に挑戦するべき」と言うものだ。
新聞などではプルシェンコ氏がジャンプが得意なので言ったように報道された。終了後に新たに「採点システムは変更されるべきだ。五輪王者が4回転ジャンプの跳び方を知らないならば、男子シングルではなくアイスダンスに名前を変えなくてはならない」と言った時にはまるで負けたのにみっともない的に伝えたものもあった。
私には正直そこまで4回転にこだわることもないのに、と思った部分があった。
現行の難しい技をやった方が損な評価は止めるべきである。例えばダウングレードによる二重減点を止め難しい技の基礎点を上げる。更には出来映えによる加点をもっと制限するか、基礎点を上げ加点を止め技の完成度による減点方式にする。そうすれば少なくても挑戦する価値は出来る。
加速する4回転競争に怪我する選手が増え制限がかかった部分もある。どうしても飛べない選手もいるしそれで良いのでは・・・と私は単純に思っていた。
しかしながらバンクーバーオリンピックのエキシビションを見てそして昔のフィギュアの映像を見て、プルシェンコ氏が言いたかったのは別に4回転のことではないのでは?と思ったのだ。
エキシビションというのはおまけであるので競技でやるような高難度の技はあまりない。競技で無いのに怪我をするような危険は犯さないのは当然である。
しかし一方でおまけであるからこそ出来ることがある。例えば昔フランスにボナリ―氏という選手がいたがこの人はよくバックフリップを見せていた。これは競技では禁止されているのでエキシビションならではの楽しみだった。
ロロ氏も試合では出来ないスピンをやっていたし他にも普段あり得ない組み合わせの競演などがあった。
さて今回のエキシビションでプルシェンコ氏はなんと3Aを2度も飛んでいた。氏はもともとエキシビションを沸かせることの上手い人である。色んな格好をしてでてきて驚かせたり突然(着ぐるみを着ているが)脱ぎ出したり・・・今回のエキシビションでも3Aでそして試合ではレベル1になってしまう高速ステップなどを見せ最もその演技で会場を盛り上げた。
一方他の人達はなんというか試合の延長のような演技が多かった。試合でやる技を少しランクを落として演じている・・・そう言う印象がぬぐえない。エキシビションならではと言うものはあまり無かった。
プルシェンコ氏がわざわざ3Aを2回飛んだのは意味があると思う。3Aは決して簡単な技ではない。ランビエ―ル氏はどうしても今期上手く降りられずプログラムから外してしまったし、実際の試合でもこれをミスする選手が何人もいた。その位のレベルの技だ。
それでも氏はエキシビションで2回もとんだ。自分は飛べるという自信があるからだろう。それも確実に決めるではなく絶対に降りるという意志によって。
オリンピック前に「4回転を跳ばなくてもプルシェンコに勝てる」と豪語した選手がいた。4回転に試合で挑戦したことのない選手だった。
しかしその選手は結局試合で一度も3Aをまともに飛ぶことが出来ず自滅した。もちろんエキシビションに飛べようはずが無い。
しかしプルシェンコ氏は試合で決め銀メダルを獲得しエキシビションでも決めた。この差はどこにあるのだろう?
今のルールでは技のレベルによって点数を獲得する。点数を取りやすい似たような技ばかりどの選手もするようになる。また内容を詰め込んでも減点の口実を増やすだけなので極力そう言ったものを減らす傾向にある。
その究極がキム・ヨナ選手のプログラムである。所々で休憩を入れ動き出しのスピードの印象をつける。技と技の間にあまりつなぎを入れないスカスカのプログラムにして減点を減らしまた体力の減少も防ぐ。省エネプログラムだ。
そうなるとやらなければならない技は上手くなる(それでもキム選手は2シーズン位前の方がスパイラル等上手く見える)がそれだけだ。
エキシビションで自由に滑っても良いよと言われても試合でやっている内容以上のものを作り出せない。それは多かれ少なかれ他の選手にも言えると思う。
かつてもっと高度な技をとか自分なりの見せ方をと追求していた頃はもっと自由な魅力があった。仮に試合で使えなくてもエキシビションで自分の魅力を伝えるのに有効であった。この選手ならではの楽しみ方と言うものがあったと思う。
だからこそ技術の追求が実は芸術性も高めることになっていたと思う。
4回転発言をしたプルシェンコ氏について日本のあるアナウンサーが「プルシェンコはジャンプだけの選手。芸術性が足りない」と言った。プルシェンコ氏のかつて芸術点満点を取った演技を知らないのかそれともブランクがあるため現行の採点システムには合わないと思ったのかそれはわからない。
とにかくもジャンプの選手と思われているかもしれないがプルシェンコ氏こそかつて芸術性の選手と言われた人なのだ。その芸術性を表現するのに必要だったのが卓越した技術だ。そしてその技術があるからこそブランクがあり採点方式の変更があってもそれに対応しメダルを獲得することが出来、また幅広いエンター性をエキシビションで表現できるのだ。
プルシェンコ氏の最盛期は2001年~2003年位だと思う。つまりトリノで金を取った時も今回のバンクーバーもピークが過ぎているわけだ。(しかもどちらも体調不良、トリノは食中毒だったし…)それでもメダルを取れるトップ選手である。
最盛期の氏は4-3-3を飛んでいるし、練習で3Lo-3Lo-3Loを飛んでいる動画を見たことがある。怪我の影響で当時やっていた幾つかはできなくなっているが元々できることが多い分今なおその地位を保っている。だからこそエキシビションで2回3Aを飛ぶなんてことができる。だから先ほどの「プルシェンコをを倒せる」と言った選手のプログラムをただなぞるだけならたぶん氏には不可能でないだろう。
しかしその選手が最盛期の氏のプログラムをなぞることは不可能だ。そもそも4回転が飛べないしそれを抜きにしても音楽の1音1音すべてを表現したかのようなステップも女子選手並みのビールマンスピンも曲の最初から最後まで高速にすべり難度の高いジャンプを飛び続ける…現行ではほとんど点数にならないことであるためやってみようとも思わなかっただろう。やらない以上決してできることはない。
氏はできることが多くあるので現行のルールのあわせ「やらない」選択ができる。しかし今の選手の多くは点数がもらえることしかやらないしできない。限られた中でやるしかない。やらないのではなく「やれない」のだ。
「やらない」と「やれない」はそもそも時限の違う話だ。「やらない」人はルールの無いところではもっと違うことができるが「やれない」人はやれる範囲でやるしかない。だからエキシビションが試合の二番煎じみたいなものばかりになってしまう。代わり映えの無いものばかり見せられれば飽きたりつまらなくなったりする。
より幅広い表現、その人ならではの演技、そしてフィギュアスケートの発展、それには現行の出来る技をただ正確にすべるだけでは足りないとプルシェンコ氏は思ったのだろう。出来る技術が少なくてより発展することが出来るのか?高見を目指さずにその向こうの世界を見ることは出来ない。そう言う意味で「4回転は必要」と言ったのではないだろうか?
実際、欧州ではフィギュア離れが進んでいる。観客数は減っているし新しい話題の選手もなかなか出てこない。日本がオリンピックシングル種目で全員入賞という快挙をなせたのもそう言う背景がある。
10年前の演技と最近の演技、どちらが面白いかと言われれば私は残念ながら前の方を選んでしまう。ヤグディン(昔はヤグージンって言ってた気がする・・・)氏とプルシェンコ氏が競っていた頃のフィギュアがとても魅力的に感じる。画像も荒いし音も良くない、それでも魅力を感じずにいられない何かがある。
機会があったら一度ネットの動画でも良いので見てみるのも良いかもしれない。見てみれば・・・私が感じた何かを理解して貰えるかもしれない。
切っ掛けはバンクーバーオリンピックのエキシビションだった。
私がフィギュアスケートが好きな理由の一つにエキシビションがあげられる。競技の緊張感から解放された選手達が自由の演じてくれるおまけではある。試合では見られないスケートの魅力が垣間見れるのも良い。
今回はオリンピックと言うことでエキシビションもいつも以上に面白いだろうと期待して見ていた。
ところが・・・実際の演技は期待はずれというか、はっきり言ってつまらない内容だった。
銀メダルを取ったロシアのプルシェンコ氏が早々に出てきて会場を沸かせたもののその後はどんどん盛り下がっていく。あげくにオリンピックのエキシビションなのに金メダリストにアンコールすら起こらない。最後に地元のカナダ金メダリストが登場し何とか会場も沸いたが、それでも今まで見た中で最も盛り上がらなかったエキシビションだったように思えた。
あまりにも消化不良だったため昔の映像を見て満足しようと動画サイトに行ったのだ。
ヤグディン氏、キャンデロロ氏、スルツカヤ氏、伊藤みどり氏など往年の名選手達そして今回も参加したプルシェンコ氏の数々の映像を見て楽しんだ。なんというか昨今にはない疾走感や躍動感そして華やかさを味わった。
そして動画を幾つも見ている内に「プルシェンコ氏が言っていたのはこういう事だったのかな・・・」と自分の中にすとんと落ちてきた考えがあった。
それはオリンピック中に氏が言った「男子であれば4回転に挑戦するべき」と言うものだ。
新聞などではプルシェンコ氏がジャンプが得意なので言ったように報道された。終了後に新たに「採点システムは変更されるべきだ。五輪王者が4回転ジャンプの跳び方を知らないならば、男子シングルではなくアイスダンスに名前を変えなくてはならない」と言った時にはまるで負けたのにみっともない的に伝えたものもあった。
私には正直そこまで4回転にこだわることもないのに、と思った部分があった。
現行の難しい技をやった方が損な評価は止めるべきである。例えばダウングレードによる二重減点を止め難しい技の基礎点を上げる。更には出来映えによる加点をもっと制限するか、基礎点を上げ加点を止め技の完成度による減点方式にする。そうすれば少なくても挑戦する価値は出来る。
加速する4回転競争に怪我する選手が増え制限がかかった部分もある。どうしても飛べない選手もいるしそれで良いのでは・・・と私は単純に思っていた。
しかしながらバンクーバーオリンピックのエキシビションを見てそして昔のフィギュアの映像を見て、プルシェンコ氏が言いたかったのは別に4回転のことではないのでは?と思ったのだ。
エキシビションというのはおまけであるので競技でやるような高難度の技はあまりない。競技で無いのに怪我をするような危険は犯さないのは当然である。
しかし一方でおまけであるからこそ出来ることがある。例えば昔フランスにボナリ―氏という選手がいたがこの人はよくバックフリップを見せていた。これは競技では禁止されているのでエキシビションならではの楽しみだった。
ロロ氏も試合では出来ないスピンをやっていたし他にも普段あり得ない組み合わせの競演などがあった。
さて今回のエキシビションでプルシェンコ氏はなんと3Aを2度も飛んでいた。氏はもともとエキシビションを沸かせることの上手い人である。色んな格好をしてでてきて驚かせたり突然(着ぐるみを着ているが)脱ぎ出したり・・・今回のエキシビションでも3Aでそして試合ではレベル1になってしまう高速ステップなどを見せ最もその演技で会場を盛り上げた。
一方他の人達はなんというか試合の延長のような演技が多かった。試合でやる技を少しランクを落として演じている・・・そう言う印象がぬぐえない。エキシビションならではと言うものはあまり無かった。
プルシェンコ氏がわざわざ3Aを2回飛んだのは意味があると思う。3Aは決して簡単な技ではない。ランビエ―ル氏はどうしても今期上手く降りられずプログラムから外してしまったし、実際の試合でもこれをミスする選手が何人もいた。その位のレベルの技だ。
それでも氏はエキシビションで2回もとんだ。自分は飛べるという自信があるからだろう。それも確実に決めるではなく絶対に降りるという意志によって。
オリンピック前に「4回転を跳ばなくてもプルシェンコに勝てる」と豪語した選手がいた。4回転に試合で挑戦したことのない選手だった。
しかしその選手は結局試合で一度も3Aをまともに飛ぶことが出来ず自滅した。もちろんエキシビションに飛べようはずが無い。
しかしプルシェンコ氏は試合で決め銀メダルを獲得しエキシビションでも決めた。この差はどこにあるのだろう?
今のルールでは技のレベルによって点数を獲得する。点数を取りやすい似たような技ばかりどの選手もするようになる。また内容を詰め込んでも減点の口実を増やすだけなので極力そう言ったものを減らす傾向にある。
その究極がキム・ヨナ選手のプログラムである。所々で休憩を入れ動き出しのスピードの印象をつける。技と技の間にあまりつなぎを入れないスカスカのプログラムにして減点を減らしまた体力の減少も防ぐ。省エネプログラムだ。
そうなるとやらなければならない技は上手くなる(それでもキム選手は2シーズン位前の方がスパイラル等上手く見える)がそれだけだ。
エキシビションで自由に滑っても良いよと言われても試合でやっている内容以上のものを作り出せない。それは多かれ少なかれ他の選手にも言えると思う。
かつてもっと高度な技をとか自分なりの見せ方をと追求していた頃はもっと自由な魅力があった。仮に試合で使えなくてもエキシビションで自分の魅力を伝えるのに有効であった。この選手ならではの楽しみ方と言うものがあったと思う。
だからこそ技術の追求が実は芸術性も高めることになっていたと思う。
4回転発言をしたプルシェンコ氏について日本のあるアナウンサーが「プルシェンコはジャンプだけの選手。芸術性が足りない」と言った。プルシェンコ氏のかつて芸術点満点を取った演技を知らないのかそれともブランクがあるため現行の採点システムには合わないと思ったのかそれはわからない。
とにかくもジャンプの選手と思われているかもしれないがプルシェンコ氏こそかつて芸術性の選手と言われた人なのだ。その芸術性を表現するのに必要だったのが卓越した技術だ。そしてその技術があるからこそブランクがあり採点方式の変更があってもそれに対応しメダルを獲得することが出来、また幅広いエンター性をエキシビションで表現できるのだ。
プルシェンコ氏の最盛期は2001年~2003年位だと思う。つまりトリノで金を取った時も今回のバンクーバーもピークが過ぎているわけだ。(しかもどちらも体調不良、トリノは食中毒だったし…)それでもメダルを取れるトップ選手である。
最盛期の氏は4-3-3を飛んでいるし、練習で3Lo-3Lo-3Loを飛んでいる動画を見たことがある。怪我の影響で当時やっていた幾つかはできなくなっているが元々できることが多い分今なおその地位を保っている。だからこそエキシビションで2回3Aを飛ぶなんてことができる。だから先ほどの「プルシェンコをを倒せる」と言った選手のプログラムをただなぞるだけならたぶん氏には不可能でないだろう。
しかしその選手が最盛期の氏のプログラムをなぞることは不可能だ。そもそも4回転が飛べないしそれを抜きにしても音楽の1音1音すべてを表現したかのようなステップも女子選手並みのビールマンスピンも曲の最初から最後まで高速にすべり難度の高いジャンプを飛び続ける…現行ではほとんど点数にならないことであるためやってみようとも思わなかっただろう。やらない以上決してできることはない。
氏はできることが多くあるので現行のルールのあわせ「やらない」選択ができる。しかし今の選手の多くは点数がもらえることしかやらないしできない。限られた中でやるしかない。やらないのではなく「やれない」のだ。
「やらない」と「やれない」はそもそも時限の違う話だ。「やらない」人はルールの無いところではもっと違うことができるが「やれない」人はやれる範囲でやるしかない。だからエキシビションが試合の二番煎じみたいなものばかりになってしまう。代わり映えの無いものばかり見せられれば飽きたりつまらなくなったりする。
より幅広い表現、その人ならではの演技、そしてフィギュアスケートの発展、それには現行の出来る技をただ正確にすべるだけでは足りないとプルシェンコ氏は思ったのだろう。出来る技術が少なくてより発展することが出来るのか?高見を目指さずにその向こうの世界を見ることは出来ない。そう言う意味で「4回転は必要」と言ったのではないだろうか?
実際、欧州ではフィギュア離れが進んでいる。観客数は減っているし新しい話題の選手もなかなか出てこない。日本がオリンピックシングル種目で全員入賞という快挙をなせたのもそう言う背景がある。
10年前の演技と最近の演技、どちらが面白いかと言われれば私は残念ながら前の方を選んでしまう。ヤグディン(昔はヤグージンって言ってた気がする・・・)氏とプルシェンコ氏が競っていた頃のフィギュアがとても魅力的に感じる。画像も荒いし音も良くない、それでも魅力を感じずにいられない何かがある。
機会があったら一度ネットの動画でも良いので見てみるのも良いかもしれない。見てみれば・・・私が感じた何かを理解して貰えるかもしれない。
勉強が出来ることが頭の良いことではない
2010年3月2日 雑記 コメント (1)衆議院議員城内実氏のブログが炎上に近い状況だ。
発端は彼が書いた女子フィギュアスケートの結果に対するコラムだ。
韓国のキム・ヨナ選手は早くからカナダで練習するなどオリンピックで金メダルを取るために大変努力した。浅田選手など日本人選手は努力が足りず完敗であった・・・と言うような事が書かれていた。
おそらく文面の最後にちらっと出てくるスポーツ振興にもっと国を挙げていかないと・・・ということを言いたかったと推測するが、書き方が悪すぎた。
選手に対し「お疲れ様」などのねぎらいの一つもない。そもそも日本代表選手の名前を間違えている。明らかにフィギュアスケート競技の知識が無く点数や諸々新聞テレビなどで報道された程度の情報のみで自己の理論を展開している・・・などなどオリンピックなど大きなイベント事の時に良く見かける世間の話題に乗ってみた素人の文章だ。
私はたぶん書かれてからそれほど時間の経っていない頃にそれを見た。フィギュアはかなり好きなのでそれ関係のブログやニュースを渡っている内に引っかかったのだ。
読んで最初に思ったのは「この人東大卒で元官僚で勉強は出来るだろうけどバカだったんだな~」というものだった。
別に軽蔑したわけでもないし怒ったわけもない、ただ多少の呆れと同情を感じたくらいだ。少なくても自分の関心のない事例については無知なんだと言うことがよくわかったからだ。
その時にもすでにコメントは付いていた。中にはかなり詳しい方が無知な議員にフィギュアスケートのルールや採点方式の問題点などを説明しているものも幾つかあった。そう言ったコメントを読めば自分の無知加減や選手やコラムの読者に不快に感じさせたことが理解できるだろう。
きっとそのうちコラムを取り下げるか謝罪コメントを出すのだろう、と当初はたいした事じゃないと思った。
時事ネタによく知らないながらも自分なりの意見をつけたいのは世間ではよくあること。代議士でありながらといわれればそうかもしれないが口が滑ることは誰にだってある。
しかしながらその後コラムに1,000近くのコメントが付きながら一向に静まることはなくむしろ時間が経つ程に燃え上がってしまっている。
それは次のコラムとコメントをもらったことに対する文章が私の予測したことと全く違っていたためだ。
次のコラムは女子パシュートの銀メダルに他者の言葉を借りてつめが甘い、執念に差があると切り捨てている。一応その後に次は金メダルを取って欲しいと書かれているがその文面から選手に対する敬意が感じられない。
あげくに、ルールがどうのこうのと言う前に勝たなければしょうがない、国際オリンピック協会に日本人に不利なルール変更については適時適切に申し入れすると同時に、日本選手が精神面でも強くなって欲しい・・・と続く。
この次のコラムを目にした時、前の時に感じた自分の感覚は間違っていたとおもった。この人は(うっかりさんな)バカではなく真性の馬鹿なのだ、と。
読者からの親切な忠告や間違った認識に対する諫言は全く通じていなかったのだ。
決勝戦まで何レースもこなし勝ち上がった選手達が「精神面で弱い」のか?それではその日本に負けた他の国々は?精神的に弱い存在なのか?他の国ではどうかわからないが日本では少なくても競技で勝っても負けても相手を尊重するのではなかったか?
勝つことだけが目的であるならメダルは金だけで良い。金メダルを与えることがそもそもオリンピックの精神なのか?
それだけではない。不利なルールの変更を申し入れしていく・・・など終わった後に言うなら誰でも出来る。
今までそれだけのことをしてきたのかどうか、何故現状がこうなのか、その原因がどこにあるのかと突き詰めていけばこの国を動かしてきた政治家にも行きあたるはずだ。その一角を担う立場にありながら選手を守れなかったことに対し謝意を示すこともなく軽々しく結果だけで勝たなければ意味がないという。
流石にこの文面を見た時には頭を抱えた。私は静岡県民だ。城内氏の選挙区ではないが郵政選挙前後から話題になる氏のニュースは他県の人よりはよく見てきた。不遇の時代があり再選という結果に頑張って欲しいと期待した一人である。
だからこそこのパシュートのことを書かれたコラムにはひどく腹が立った。
上記のオリンピックの話題の後は自身の選挙の話に続く。
曰く、郵政選挙の時に敗れたのは自分の努力が足らなかったからで、前回の選挙で勝ったのは努力したからだ、と。
これには開いた口が塞がらなかった。自分が努力したから選挙で勝った、本気でそう言うのなら議員バッジを外すべきである。それは氏に投じた1票1票に、そして氏以外の人に投じられた1票1票に対する冒涜である。
城内氏は自身を信念の人と呼び理解を求めている。このコラムもどうやらその信念に従って書かれたものらしい。中途半端な認識による理解でも絶対的に正しいと信じているようだ。
信念・・・といえば聞こえが良いが、見方を変えればただの思い込みすぎない。真っ直ぐであればあるほどものの本質からそれやすく世界が狭くなる。
今回も数多くの批判や忠告がされたが、どうも罵詈雑言としか受け止められなかったようだ。匿名でも良いのでご意見をとブログに謳いながらいざ批判が増えると「実名で書くべきだ」とくる。どうやら自分に少しでも誤りがあるとは思ってないらしい。
最初のコラムのコメントをつけた多くの人々はあおりや中傷ではなく、フィギュアスケートが好きで一方的な氏の言葉に意見を書かずにいられなかった人だ。いわば最も一般的な市民だ。彼らが求めていたのは偏見的な氏のとらえ方の訂正と代表選手に対する敬意と愛情だったはずだ。
「自分の書き方が悪く不快にさせてしまってすみませんでした」などの誠意ある謝意が見られればこんな事にならなかった。
過去、周囲で色々ともめ事が起こってきたのはひとえに氏のこういった独善的なものの考え方から来ているのではないか・・・どちらかと言えば好意的に受け止めていたが、こう人の話に耳が貸せないのであれば政治家としても人間性でも致命的であると言うしかないだろうと思った出来事だった。
発端は彼が書いた女子フィギュアスケートの結果に対するコラムだ。
韓国のキム・ヨナ選手は早くからカナダで練習するなどオリンピックで金メダルを取るために大変努力した。浅田選手など日本人選手は努力が足りず完敗であった・・・と言うような事が書かれていた。
おそらく文面の最後にちらっと出てくるスポーツ振興にもっと国を挙げていかないと・・・ということを言いたかったと推測するが、書き方が悪すぎた。
選手に対し「お疲れ様」などのねぎらいの一つもない。そもそも日本代表選手の名前を間違えている。明らかにフィギュアスケート競技の知識が無く点数や諸々新聞テレビなどで報道された程度の情報のみで自己の理論を展開している・・・などなどオリンピックなど大きなイベント事の時に良く見かける世間の話題に乗ってみた素人の文章だ。
私はたぶん書かれてからそれほど時間の経っていない頃にそれを見た。フィギュアはかなり好きなのでそれ関係のブログやニュースを渡っている内に引っかかったのだ。
読んで最初に思ったのは「この人東大卒で元官僚で勉強は出来るだろうけどバカだったんだな~」というものだった。
別に軽蔑したわけでもないし怒ったわけもない、ただ多少の呆れと同情を感じたくらいだ。少なくても自分の関心のない事例については無知なんだと言うことがよくわかったからだ。
その時にもすでにコメントは付いていた。中にはかなり詳しい方が無知な議員にフィギュアスケートのルールや採点方式の問題点などを説明しているものも幾つかあった。そう言ったコメントを読めば自分の無知加減や選手やコラムの読者に不快に感じさせたことが理解できるだろう。
きっとそのうちコラムを取り下げるか謝罪コメントを出すのだろう、と当初はたいした事じゃないと思った。
時事ネタによく知らないながらも自分なりの意見をつけたいのは世間ではよくあること。代議士でありながらといわれればそうかもしれないが口が滑ることは誰にだってある。
しかしながらその後コラムに1,000近くのコメントが付きながら一向に静まることはなくむしろ時間が経つ程に燃え上がってしまっている。
それは次のコラムとコメントをもらったことに対する文章が私の予測したことと全く違っていたためだ。
次のコラムは女子パシュートの銀メダルに他者の言葉を借りてつめが甘い、執念に差があると切り捨てている。一応その後に次は金メダルを取って欲しいと書かれているがその文面から選手に対する敬意が感じられない。
あげくに、ルールがどうのこうのと言う前に勝たなければしょうがない、国際オリンピック協会に日本人に不利なルール変更については適時適切に申し入れすると同時に、日本選手が精神面でも強くなって欲しい・・・と続く。
この次のコラムを目にした時、前の時に感じた自分の感覚は間違っていたとおもった。この人は(うっかりさんな)バカではなく真性の馬鹿なのだ、と。
読者からの親切な忠告や間違った認識に対する諫言は全く通じていなかったのだ。
決勝戦まで何レースもこなし勝ち上がった選手達が「精神面で弱い」のか?それではその日本に負けた他の国々は?精神的に弱い存在なのか?他の国ではどうかわからないが日本では少なくても競技で勝っても負けても相手を尊重するのではなかったか?
勝つことだけが目的であるならメダルは金だけで良い。金メダルを与えることがそもそもオリンピックの精神なのか?
それだけではない。不利なルールの変更を申し入れしていく・・・など終わった後に言うなら誰でも出来る。
今までそれだけのことをしてきたのかどうか、何故現状がこうなのか、その原因がどこにあるのかと突き詰めていけばこの国を動かしてきた政治家にも行きあたるはずだ。その一角を担う立場にありながら選手を守れなかったことに対し謝意を示すこともなく軽々しく結果だけで勝たなければ意味がないという。
流石にこの文面を見た時には頭を抱えた。私は静岡県民だ。城内氏の選挙区ではないが郵政選挙前後から話題になる氏のニュースは他県の人よりはよく見てきた。不遇の時代があり再選という結果に頑張って欲しいと期待した一人である。
だからこそこのパシュートのことを書かれたコラムにはひどく腹が立った。
上記のオリンピックの話題の後は自身の選挙の話に続く。
曰く、郵政選挙の時に敗れたのは自分の努力が足らなかったからで、前回の選挙で勝ったのは努力したからだ、と。
これには開いた口が塞がらなかった。自分が努力したから選挙で勝った、本気でそう言うのなら議員バッジを外すべきである。それは氏に投じた1票1票に、そして氏以外の人に投じられた1票1票に対する冒涜である。
城内氏は自身を信念の人と呼び理解を求めている。このコラムもどうやらその信念に従って書かれたものらしい。中途半端な認識による理解でも絶対的に正しいと信じているようだ。
信念・・・といえば聞こえが良いが、見方を変えればただの思い込みすぎない。真っ直ぐであればあるほどものの本質からそれやすく世界が狭くなる。
今回も数多くの批判や忠告がされたが、どうも罵詈雑言としか受け止められなかったようだ。匿名でも良いのでご意見をとブログに謳いながらいざ批判が増えると「実名で書くべきだ」とくる。どうやら自分に少しでも誤りがあるとは思ってないらしい。
最初のコラムのコメントをつけた多くの人々はあおりや中傷ではなく、フィギュアスケートが好きで一方的な氏の言葉に意見を書かずにいられなかった人だ。いわば最も一般的な市民だ。彼らが求めていたのは偏見的な氏のとらえ方の訂正と代表選手に対する敬意と愛情だったはずだ。
「自分の書き方が悪く不快にさせてしまってすみませんでした」などの誠意ある謝意が見られればこんな事にならなかった。
過去、周囲で色々ともめ事が起こってきたのはひとえに氏のこういった独善的なものの考え方から来ているのではないか・・・どちらかと言えば好意的に受け止めていたが、こう人の話に耳が貸せないのであれば政治家としても人間性でも致命的であると言うしかないだろうと思った出来事だった。
かわいそうな金メダリスト
2010年2月27日 雑記バンクーバーオリンピックもそろそろ終わろうとしている。
昨日は女子フィギュアフリーが行われ日本人3人がすべて入賞した。
いくつか前までのオリンピックでは枠を増やすことに一生懸命だったことから思えば男女6人入賞と言うのはこの上も無く良い結果だと言わざるを得ない。
浅田選手には金メダルの期待が大きかっただけに銀は少し残念ではあるが、現行ルール上の不利は最初から指摘されていたのでミスがあった以上仕方ないと思える。それでも女子初の快挙はすばらしいと褒め称えたい。点数がでるでないではなく賞賛すべきことだと思う。
ミスの少ない選手が勝つというのは前のオリンピックからの風潮である。荒川選手はうまくその状況に乗り金メダルを取った。そういう意味でミスが無いプログラムを滑った韓国選手が金メダルなのは妥当だ。それは見ていて当然だと思った。
しかしながら得点が出たときには驚いた。そして同時にこの金選手はかわいそうな選手だと同情してしまった。何しろ過去最高点を記録してしまったのだ。それもおそらく女子で今後これを越えることはできないだろうと言うほどの。
全般的に昨日の女子フリーは点数がインフレ気味であった。一部選手が抑えられた印象はあるが全体的にかなり高めについている。自己ベストを5点以上アップと言う選手が何人もいることから確かであろう。それまでの流れからして金選手にかなり高得点が出ることは予想できた。しかしまさか220点を越えるとは思わなかった。男子並みの得点と報道されたがその通りである。
今日の新聞に金選手の得点は男子でも13位に当ると言う記事があったがそれは間違いである。女子と男子では計算式が違うからだ。金選手の得点を男子の計算方式でするとなんと3位の高橋選手を上回ってしまう。男子に混じっても銅メダルが取れることになるわけだ。おまけに女子は男子に比べ要素が1つ少ない。他の要素と同じくらいの感覚でもう一つの要素分の得点を足したなら……これ以上のことは言わないほうがいいだろう。つまりそれほどの得点と言うわけだ。いくらなんでもやりすぎだ。
今回の女子フィギュアの金銀の順位は妥当だろう。問題は得点である。
金選手が200~205点(点が出る傾向だったから最大210点)、浅田選手が190~195点(同じく最大200点)程度であれば何の問題も無かったはずだ。(ついでに長洲・ロシェット・安藤選手が180~190点、最大195点位が妥当では?)
金選手はミスの無い演技をし浅田選手はミスがあった。その差でメダルの色が決まった、それなら私は金選手をかわいそうだとは思わなかった。
採点競技であるフィギュアはその得点が会場や開催条件によって変動を受けやすい。また地元有利はどこでもおこる。これはまぁ仕方の無いことだ。しかしだからといってそれを際限なくしてはもはやスポーツではなくなる。
今回はオリンピック会場がカナダであることから北米有利の採点方式と言われた。男子の金はアメリカでありアイスダンスはカナダが取った。女子の金選手は国籍こそ韓国であるがコーチや練習場所はやはり北米である。その流れに沿った結果と言えよう。
そして次はソチ・ロシアである。今回ロシアはあまり良い結果でなかったことからも次回はそちらのほうに有利な採点に変更されていくことは予想される。ただどう変更になったとしても現状の加点天上知らずの傾向はおそらく歯止めが掛かるはずだ。出なければスポーツではなくなる。
そうなれば金選手が今回出した得点を上回ることはおそらくない。男子並みの得点など普通に考えたらありえないのだから。女子最高得点としてこの先ずっと残ることになる。私がかわいそうだと思ったのはその部分だ。
10年とか20年経って子供達に「これが最高得点の演技だよ」と金選手の映像を見せる。おそらく基礎点や計算方式は変わっているだろう。そうなれば当然子供達は疑問に思う『なぜこんな高得点が出るの?』と。
スピードが(最初は)ある、3-3がきれいに飛べる、上半身(特に腕)の使い方が上手い…という金選手の良さだけでは説明できない得点だ。
金選手は体が硬く腰が悪いためスパイラルのポジションは余り良くないしスピンも腰高の傾向がある。それはフィギュアをやっていれば子供でもわかる。それなのに…である。
金選手は良い演技をして金メダルを取った。それは間違いの無いことだ。しかしながら過剰に加点をしたためありえない点数が出てしまった。それは金選手の罪ではない。しかし彼女はこれからずっとこの得点を背負っていくことになるのだ。
「この演技で何故こんな高得点が?」
未来の人々にそう思われるだろう点数を与えられてしまったために・・・それはあまりにも哀れである。
演技そのもので十分金メダルに相応しかったのに…ミスに泣く浅田選手以上に金選手がかわいそうで仕方が無い女子フィギュアだった。
昨日は女子フィギュアフリーが行われ日本人3人がすべて入賞した。
いくつか前までのオリンピックでは枠を増やすことに一生懸命だったことから思えば男女6人入賞と言うのはこの上も無く良い結果だと言わざるを得ない。
浅田選手には金メダルの期待が大きかっただけに銀は少し残念ではあるが、現行ルール上の不利は最初から指摘されていたのでミスがあった以上仕方ないと思える。それでも女子初の快挙はすばらしいと褒め称えたい。点数がでるでないではなく賞賛すべきことだと思う。
ミスの少ない選手が勝つというのは前のオリンピックからの風潮である。荒川選手はうまくその状況に乗り金メダルを取った。そういう意味でミスが無いプログラムを滑った韓国選手が金メダルなのは妥当だ。それは見ていて当然だと思った。
しかしながら得点が出たときには驚いた。そして同時にこの金選手はかわいそうな選手だと同情してしまった。何しろ過去最高点を記録してしまったのだ。それもおそらく女子で今後これを越えることはできないだろうと言うほどの。
全般的に昨日の女子フリーは点数がインフレ気味であった。一部選手が抑えられた印象はあるが全体的にかなり高めについている。自己ベストを5点以上アップと言う選手が何人もいることから確かであろう。それまでの流れからして金選手にかなり高得点が出ることは予想できた。しかしまさか220点を越えるとは思わなかった。男子並みの得点と報道されたがその通りである。
今日の新聞に金選手の得点は男子でも13位に当ると言う記事があったがそれは間違いである。女子と男子では計算式が違うからだ。金選手の得点を男子の計算方式でするとなんと3位の高橋選手を上回ってしまう。男子に混じっても銅メダルが取れることになるわけだ。おまけに女子は男子に比べ要素が1つ少ない。他の要素と同じくらいの感覚でもう一つの要素分の得点を足したなら……これ以上のことは言わないほうがいいだろう。つまりそれほどの得点と言うわけだ。いくらなんでもやりすぎだ。
今回の女子フィギュアの金銀の順位は妥当だろう。問題は得点である。
金選手が200~205点(点が出る傾向だったから最大210点)、浅田選手が190~195点(同じく最大200点)程度であれば何の問題も無かったはずだ。(ついでに長洲・ロシェット・安藤選手が180~190点、最大195点位が妥当では?)
金選手はミスの無い演技をし浅田選手はミスがあった。その差でメダルの色が決まった、それなら私は金選手をかわいそうだとは思わなかった。
採点競技であるフィギュアはその得点が会場や開催条件によって変動を受けやすい。また地元有利はどこでもおこる。これはまぁ仕方の無いことだ。しかしだからといってそれを際限なくしてはもはやスポーツではなくなる。
今回はオリンピック会場がカナダであることから北米有利の採点方式と言われた。男子の金はアメリカでありアイスダンスはカナダが取った。女子の金選手は国籍こそ韓国であるがコーチや練習場所はやはり北米である。その流れに沿った結果と言えよう。
そして次はソチ・ロシアである。今回ロシアはあまり良い結果でなかったことからも次回はそちらのほうに有利な採点に変更されていくことは予想される。ただどう変更になったとしても現状の加点天上知らずの傾向はおそらく歯止めが掛かるはずだ。出なければスポーツではなくなる。
そうなれば金選手が今回出した得点を上回ることはおそらくない。男子並みの得点など普通に考えたらありえないのだから。女子最高得点としてこの先ずっと残ることになる。私がかわいそうだと思ったのはその部分だ。
10年とか20年経って子供達に「これが最高得点の演技だよ」と金選手の映像を見せる。おそらく基礎点や計算方式は変わっているだろう。そうなれば当然子供達は疑問に思う『なぜこんな高得点が出るの?』と。
スピードが(最初は)ある、3-3がきれいに飛べる、上半身(特に腕)の使い方が上手い…という金選手の良さだけでは説明できない得点だ。
金選手は体が硬く腰が悪いためスパイラルのポジションは余り良くないしスピンも腰高の傾向がある。それはフィギュアをやっていれば子供でもわかる。それなのに…である。
金選手は良い演技をして金メダルを取った。それは間違いの無いことだ。しかしながら過剰に加点をしたためありえない点数が出てしまった。それは金選手の罪ではない。しかし彼女はこれからずっとこの得点を背負っていくことになるのだ。
「この演技で何故こんな高得点が?」
未来の人々にそう思われるだろう点数を与えられてしまったために・・・それはあまりにも哀れである。
演技そのもので十分金メダルに相応しかったのに…ミスに泣く浅田選手以上に金選手がかわいそうで仕方が無い女子フィギュアだった。
年間で10~20枚強DVDを購入している。
ALFEEとか宝塚とか古い洋画とか・・・まぁジャンルは偏っていて時間があったら見たいと思っているものなのだが実際半分以上は見れないでいる。
なぜならDVDは大抵2時間以上の時間がかかるもので特に最初の1回は中断なく見たいと思っている私には落ち着いて見る時がなければなかなか封が切れないのだ。
しかしながらこの土日、久々にDVDを長時間じっくり見た。
切っ掛けは先日報道された藤田まこと氏の死去の報道だった。
幼少の頃から時代劇を当たり前に見ていた私にとって藤田氏はなじみのある役者だ。必殺シリーズはさすがに高校以降に見たのだがそれでもかなりの数を見た。先年来病で仕事を休んでいることは知っていたがそれでも衝撃のニュースだった。
そのため買っておいたが封も切っていなかった必殺仕事人のDVDをじっくり見ることにした。
私が初めて必殺を見たのは高校3年の頃だ。たぶん無印のⅤだったと思う。村上弘明氏と京本政樹氏がいたシリーズだ。
全話ではなく数話を見たくらいでその後激闘編やら旋風編やら色んなシリーズを放映順に関わらずに見ることになる。仕置人も初期必殺もちょこちょこ見てきた。
その為数年前から必殺シリーズがDVD化したためいつか見ようと購入していたのだ。
土日で1シリーズを見て、テーマ曲た音楽がぐるぐる回っている。話はシンプルだが今時のドラマでは出来ない仕掛けや映像美がそこにある。どれほど撮影技術が未熟であっても今では作れない時代劇がそこにある。
作りもそうだが役者も時代とともに変わった。この役はこの人でなくてはと言うほどの味や存在感のある人が少なくなった。シリーズものの映画やドラマが少なくなったことがそれを証明しているのかもしれない。
藤田氏の死去は一つの時代が終わったことを告げている。
必殺は数少ない人気シリーズなので今後もたぶん続いていくだろう。しかし本当の意味での仕事人シリーズはもう新作を見ることが出来ないのだと実感してDVDを見ながらとても残念に思った。
ALFEEとか宝塚とか古い洋画とか・・・まぁジャンルは偏っていて時間があったら見たいと思っているものなのだが実際半分以上は見れないでいる。
なぜならDVDは大抵2時間以上の時間がかかるもので特に最初の1回は中断なく見たいと思っている私には落ち着いて見る時がなければなかなか封が切れないのだ。
しかしながらこの土日、久々にDVDを長時間じっくり見た。
切っ掛けは先日報道された藤田まこと氏の死去の報道だった。
幼少の頃から時代劇を当たり前に見ていた私にとって藤田氏はなじみのある役者だ。必殺シリーズはさすがに高校以降に見たのだがそれでもかなりの数を見た。先年来病で仕事を休んでいることは知っていたがそれでも衝撃のニュースだった。
そのため買っておいたが封も切っていなかった必殺仕事人のDVDをじっくり見ることにした。
私が初めて必殺を見たのは高校3年の頃だ。たぶん無印のⅤだったと思う。村上弘明氏と京本政樹氏がいたシリーズだ。
全話ではなく数話を見たくらいでその後激闘編やら旋風編やら色んなシリーズを放映順に関わらずに見ることになる。仕置人も初期必殺もちょこちょこ見てきた。
その為数年前から必殺シリーズがDVD化したためいつか見ようと購入していたのだ。
土日で1シリーズを見て、テーマ曲た音楽がぐるぐる回っている。話はシンプルだが今時のドラマでは出来ない仕掛けや映像美がそこにある。どれほど撮影技術が未熟であっても今では作れない時代劇がそこにある。
作りもそうだが役者も時代とともに変わった。この役はこの人でなくてはと言うほどの味や存在感のある人が少なくなった。シリーズものの映画やドラマが少なくなったことがそれを証明しているのかもしれない。
藤田氏の死去は一つの時代が終わったことを告げている。
必殺は数少ない人気シリーズなので今後もたぶん続いていくだろう。しかし本当の意味での仕事人シリーズはもう新作を見ることが出来ないのだと実感してDVDを見ながらとても残念に思った。
本日はさわやかウォーキングデー。
風もなく日差しも温かく歩くには非常によいお日和でした。
距離もコースが12キロ、駅まで往復4キロ計16キロくらいでちょうど良い・・・と言いたいですが約3ヶ月ぶりの長距離歩行なので足の所々に痛みが。
やはり継続的に運動はやらないといけないようです。
途中「桜並木」という案内がありこの時期にはさすがにないだろうと思っていたのですが結構咲いてました。種類的には河津桜に近いのかな?そめいよしのよりかなり濃いめのピンクの花でした。
流石静岡県、ニュースでは雪だ寒波だと言われていますがもう春は近いようです。こういう時はここは住みやすくて良い土地だな~と思います。
風もなく日差しも温かく歩くには非常によいお日和でした。
距離もコースが12キロ、駅まで往復4キロ計16キロくらいでちょうど良い・・・と言いたいですが約3ヶ月ぶりの長距離歩行なので足の所々に痛みが。
やはり継続的に運動はやらないといけないようです。
途中「桜並木」という案内がありこの時期にはさすがにないだろうと思っていたのですが結構咲いてました。種類的には河津桜に近いのかな?そめいよしのよりかなり濃いめのピンクの花でした。
流石静岡県、ニュースでは雪だ寒波だと言われていますがもう春は近いようです。こういう時はここは住みやすくて良い土地だな~と思います。
昨年の2月15日夜に我が家の最後の猫が息を引き取りました。
年を越えた辺りから食欲はあるのに身にならず体重が減り入院したものの回復する兆しが見えず・・・最後は家で死なせたいと言うことで最早起き上がることも出来なくなった愛猫を迎えに行きました。
そしてその二日後日付が変わる直前に無く亡くなりました。
私がまだ学生だった頃から20年弱、猫としては長寿だったのでしょう。命あるものである以上死は避けられません。
14日、1日早いですがその半年前に亡くなった子も含めてお墓参りに行ってきました。ペットの共同墓地ですがいつ行っても花が絶えることがない場所です。
たぶん同じように家族として大切にしていたものを無くした痛みを持つ人たちの捧げ物なのでしょう。
1年が過ぎてまた新たに思い返した悲しみを振り切れないでいます。
年を越えた辺りから食欲はあるのに身にならず体重が減り入院したものの回復する兆しが見えず・・・最後は家で死なせたいと言うことで最早起き上がることも出来なくなった愛猫を迎えに行きました。
そしてその二日後日付が変わる直前に無く亡くなりました。
私がまだ学生だった頃から20年弱、猫としては長寿だったのでしょう。命あるものである以上死は避けられません。
14日、1日早いですがその半年前に亡くなった子も含めてお墓参りに行ってきました。ペットの共同墓地ですがいつ行っても花が絶えることがない場所です。
たぶん同じように家族として大切にしていたものを無くした痛みを持つ人たちの捧げ物なのでしょう。
1年が過ぎてまた新たに思い返した悲しみを振り切れないでいます。
ハッピー?バレンタイン
2010年2月14日 雑記本日はバレンタインデー。
チョコレート会社の陰謀とも言われるが別に悪い風習ではないと思っているので毎年とりあえず父には送っている。昨年からはそれに会社の社長と甥姪が増えた。
チョコレートは私の好きなロイズ。昨年ネットで買えることを知り取り寄せている。父には私の好きな昨年と同じものを選んだ。
届いたのは先週でその時点ですでにあげてしまったのだが、昨日もう良いだろうと食べることにした。
当の父も「これは上手い!」とご満悦、喜んでもらえて良かったと思ったのだが続けて「俺初めてこれを食べた」と来た。
あげる時に「去年と同じものだ」と告げてあったので、ちょっと気まずい雰囲気に・・・
実は去年父はメタボ教室に通っていた。甘いものは極力控えていた頃だった。
その為バレンタインにもらったチョコレートが冷凍庫の中に5月頃までそのまま残っていたのだ。その為捨てるにはもったいないと私と母が食べることにしたのだ。そんなわけで父は昨年もらっただけで食べていないのだ。
その甲斐あって父は今やメタボ教室の優等生。体重も10キロ以上腹回りも10センチ以上減となった。
今年は好きなだけ食べれるんだから良いじゃない、と笑ってごまかすことにした。
チョコレート会社の陰謀とも言われるが別に悪い風習ではないと思っているので毎年とりあえず父には送っている。昨年からはそれに会社の社長と甥姪が増えた。
チョコレートは私の好きなロイズ。昨年ネットで買えることを知り取り寄せている。父には私の好きな昨年と同じものを選んだ。
届いたのは先週でその時点ですでにあげてしまったのだが、昨日もう良いだろうと食べることにした。
当の父も「これは上手い!」とご満悦、喜んでもらえて良かったと思ったのだが続けて「俺初めてこれを食べた」と来た。
あげる時に「去年と同じものだ」と告げてあったので、ちょっと気まずい雰囲気に・・・
実は去年父はメタボ教室に通っていた。甘いものは極力控えていた頃だった。
その為バレンタインにもらったチョコレートが冷凍庫の中に5月頃までそのまま残っていたのだ。その為捨てるにはもったいないと私と母が食べることにしたのだ。そんなわけで父は昨年もらっただけで食べていないのだ。
その甲斐あって父は今やメタボ教室の優等生。体重も10キロ以上腹回りも10センチ以上減となった。
今年は好きなだけ食べれるんだから良いじゃない、と笑ってごまかすことにした。
わずか1ヶ月、また車に傷が付いていました。
管理の責任者に報告したものの社員の中にはいなかったと言われるばかり。この間はいつの車検をして頂いているところが無料で塗料を落としてくれたけどそうそう好意に甘えるわけにもいかないだろう。やりきれない気持ちでなんだかため息を吐きたくなる。
青空駐車場な上会社から離れているためどんな車が入り込んでいるのか見当も付かず泣き寝入りするしかないらしい。
せめて部外者が入らないように対策して欲しいと会社の改善提案箱に投函してきた。
管理の責任者に報告したものの社員の中にはいなかったと言われるばかり。この間はいつの車検をして頂いているところが無料で塗料を落としてくれたけどそうそう好意に甘えるわけにもいかないだろう。やりきれない気持ちでなんだかため息を吐きたくなる。
青空駐車場な上会社から離れているためどんな車が入り込んでいるのか見当も付かず泣き寝入りするしかないらしい。
せめて部外者が入らないように対策して欲しいと会社の改善提案箱に投函してきた。
積極的に進められると弱い
2010年2月7日 雑記久しぶりにマッサージを受けに行った。10回分申し込んであるうちの7回目になる。
最初は足などごしごし揉んでもらい気持ちいいと喜んでいたのだが最近は行く事がおっくうに感じ始めている。
マッサージを始めた頃、背中がはってますねとかむくみがかなりひどいですねとか肩がかちかちですけど痛くないですか?など言われ自分ではそんなことを感じていなかったので教えてもらってよかったと思った。受けていけばそれらの症状も良くなっていくだろうと漠然と思ったのだろう。
しかしながら生活を変えないままでマッサージだけで症状が劇的に改善することはたぶん出来ないのだ。一日中パソコンに向かって仕事をしている身では足もむくむし肩や背中もはり続ける。これは仕方ない。
おかげで毎回毎回同じ台詞を聞くことになる。
更にはこれらを改善するためにはサプリを利用すべきとかもっと別の施術を増やした方が良いとか営業熱心な勧誘を受けるようになってくると気分は全く正反対へと動いてくる。もみほぐして貰える楽しみより相手の話を聞きたくないから行きたくなくなってくるのだ。
それでもせっかく購入した権利なので無駄にするのは惜しい。それで今日も行ってきた。そろそろ終わり頃に来ているので延長も兼ねた新しい施術の勧誘も多くなってくる。
出来ればこれで終わりたいしかし相手のメンツもあるので取りあえず一つだけサプリのような健康食品を購入することにした。正直ネットなどでは同じようなものが1/10位の価格で売られているのだが・・・断り続けられるほど強い気力の持ち主ではないのでまぁしかたない。当初お試し体験に行った時に断れなかったのだからそう言うものなのだろう。
このままのペースで行けばたぶん来月の半ばくらいに残りに回数が終わる。そこですんなり終われるだろうか?いや必ず終わらなければならない。春になれば色々忙しくなってくる.出費も増えるのだ。
幾ら自分で働いたものとはいえ正直無駄だなと思う事に投資し続けることは避けるべきだ。なんとかきちんと対応できるよう自分をしっかり持ちたいと思う。
最初は足などごしごし揉んでもらい気持ちいいと喜んでいたのだが最近は行く事がおっくうに感じ始めている。
マッサージを始めた頃、背中がはってますねとかむくみがかなりひどいですねとか肩がかちかちですけど痛くないですか?など言われ自分ではそんなことを感じていなかったので教えてもらってよかったと思った。受けていけばそれらの症状も良くなっていくだろうと漠然と思ったのだろう。
しかしながら生活を変えないままでマッサージだけで症状が劇的に改善することはたぶん出来ないのだ。一日中パソコンに向かって仕事をしている身では足もむくむし肩や背中もはり続ける。これは仕方ない。
おかげで毎回毎回同じ台詞を聞くことになる。
更にはこれらを改善するためにはサプリを利用すべきとかもっと別の施術を増やした方が良いとか営業熱心な勧誘を受けるようになってくると気分は全く正反対へと動いてくる。もみほぐして貰える楽しみより相手の話を聞きたくないから行きたくなくなってくるのだ。
それでもせっかく購入した権利なので無駄にするのは惜しい。それで今日も行ってきた。そろそろ終わり頃に来ているので延長も兼ねた新しい施術の勧誘も多くなってくる。
出来ればこれで終わりたいしかし相手のメンツもあるので取りあえず一つだけサプリのような健康食品を購入することにした。正直ネットなどでは同じようなものが1/10位の価格で売られているのだが・・・断り続けられるほど強い気力の持ち主ではないのでまぁしかたない。当初お試し体験に行った時に断れなかったのだからそう言うものなのだろう。
このままのペースで行けばたぶん来月の半ばくらいに残りに回数が終わる。そこですんなり終われるだろうか?いや必ず終わらなければならない。春になれば色々忙しくなってくる.出費も増えるのだ。
幾ら自分で働いたものとはいえ正直無駄だなと思う事に投資し続けることは避けるべきだ。なんとかきちんと対応できるよう自分をしっかり持ちたいと思う。
ロバの寿命を生きている
2010年2月4日 雑記 コメント (1)先日のこと、母が突然こんなことを言った。
「お父さんと私はいまサルの寿命を生きているのよ」
その奇妙な物言いに首をかしげると母はその言葉の説明を始めた。何でもテレビでこんな話を聞いたらしい。
その昔、神様のところにロバが自分の寿命を聞きに来た。
神様が30年だと答えると、ロバはそれでは長すぎると反論したという。
そんなに長い時間人間にこき使われ重い荷物を持ち続けるのは嫌だというのだ。
そこで神様がどのくらいの寿命が良いのか訊ねるとロバは12年がいいと答え18年分の寿命を返上していった。
次にイヌがやってきて同じように寿命を訊ねた。
神様が30年だと言うとやはり長いと答える。(理由を言ったらしいが母忘れたため不明)
そこで神様が希望の寿命を問うとイヌは18年と答え12年分の寿命を返上した。
その後サルがやってきて神様に寿命を聞く。
神様が30年と告げると同じく長いと言う。
ならばどの位が良いか問い返すと20年と言い10年分の寿命を返上した。
そして最後に人間がやってきた。同じように人間も神様に寿命を問いかける。
神様が30年だと答えると人間はそれでは短すぎると答えたという。
神様は驚いてお前は30年が短いというのかと問うと人間は25年で結婚したとすると5年しか生きられないのは短すぎると返答した。
それを聞いた神様はそれならロバの返上した18年分をお前にやるといった。30年に18年足して48年なら良いだろう、と。
しかし人間はそれでも足りないと言う。(理由を言ったらしいが母忘れたため不明)
人間は神様にあれこれ言って結局イヌの寿命もサルの寿命ももらって帰っていった。
「だから私とお父さんはいまサルの寿命分を生きているというわけよ」
数年前に還暦を過ぎた母は面白そうにそう言った。
ロバやサルの寿命はよく知らないがイヌで18年といったらかなりの長寿だ。昔うちにも犬がいたが16年生きてそれでも長寿だと言われた。
ただ寿命というものは普通に健康的に生きてどの位という時間だから最大限健康的に生きればそのくらいなのかもしれない。ちょっと前に犬の最高年齢更新というニュースがあったが猫ほど永くは生きれないんだと思う時間でしかなかった。18年はある意味妥当なのかもしれない。
ロバやサルの寿命もその年数が妥当な時間なのかもしれない…そう思ったときなんだかすごく申し訳ないような気持ちがした。
人間に使役されるロバが寿命を多く返上した。ロバはロバとしての生まれた意味も意義も考えるまもなく人に利用され死んでいくのだ。その上短くなった時間は当の人間に持っていかれてしまっているのだからなんとなくやりきれない。
ロバ・イヌ・サルの寿命の長さは人に接する割合に密接に係っている印象がある。人間に利用される割合が高いほど短い。
イヌも警察犬や盲導犬として育ったものは10年ほどすると疲れきって年齢以上に衰えてしまうという話を聞いたことがある。まるで痴呆症の老人のように今まで当たり前にできたことができなくなっていくのだと。どのくらいの付加を強いているのかそう思うと居た堪れない気持ちがする。
当の人間は当たり前のように他の生き物を支配している。ロバを使役しイヌを利用し、作物に害を与えるサルを駆除したり見世物にしたり……なんとも罪作りな生き物であると思わずにいられない。
そして今ヒトの寿命は80年を超えた。
30年ほどの命しか持たない生き物のはずであったヒトがこれほどの寿命を持ったのは社会形成と道具の利用そして医療の発達の賜物である。野生動物では肉体の衰えは死を意味するが、ヒトはこれらのおかげで衰えても生き続けることができるようになった。
しかしふと本当にそうなのだろうか、と母の話を聞いて私は思った。
ヒトの寿命の延長は本来は別の生き物の寿命であったものを強引に奪い取ったためではなかったかと。ヒトが30年ほどの命の動物のままであれば現状より他の生物の寿命も長かったのではないか。
生態系の頂点を自らの手で塗り替えてしまったヒト故に他の生物の寿命が短くなってしまったのではないだろうか?
猫や犬は人間が飼うようになって寿命が延びた、という人がいるかもしれない。そう思い込むことさえすでにヒトという生物が傲慢になっているのではなかろうか。同じ地球上の生物に対し主従の関係を強いている。
もともと人間が持っていたものにロバとイヌとサルの寿命を足して70年、現在の80年以上の寿命はあとどの生き物からもらってきたものなのだろう?
そして人間はそれをもらうに相応しい生き方ができているのだろうか?それを与えてくれた神様に顔向けできる寿命の利用をしているのだろうか?
アラフォーの私はすでに人の寿命を越え、いまロバの寿命を生きている。
「お父さんと私はいまサルの寿命を生きているのよ」
その奇妙な物言いに首をかしげると母はその言葉の説明を始めた。何でもテレビでこんな話を聞いたらしい。
その昔、神様のところにロバが自分の寿命を聞きに来た。
神様が30年だと答えると、ロバはそれでは長すぎると反論したという。
そんなに長い時間人間にこき使われ重い荷物を持ち続けるのは嫌だというのだ。
そこで神様がどのくらいの寿命が良いのか訊ねるとロバは12年がいいと答え18年分の寿命を返上していった。
次にイヌがやってきて同じように寿命を訊ねた。
神様が30年だと言うとやはり長いと答える。(理由を言ったらしいが母忘れたため不明)
そこで神様が希望の寿命を問うとイヌは18年と答え12年分の寿命を返上した。
その後サルがやってきて神様に寿命を聞く。
神様が30年と告げると同じく長いと言う。
ならばどの位が良いか問い返すと20年と言い10年分の寿命を返上した。
そして最後に人間がやってきた。同じように人間も神様に寿命を問いかける。
神様が30年だと答えると人間はそれでは短すぎると答えたという。
神様は驚いてお前は30年が短いというのかと問うと人間は25年で結婚したとすると5年しか生きられないのは短すぎると返答した。
それを聞いた神様はそれならロバの返上した18年分をお前にやるといった。30年に18年足して48年なら良いだろう、と。
しかし人間はそれでも足りないと言う。(理由を言ったらしいが母忘れたため不明)
人間は神様にあれこれ言って結局イヌの寿命もサルの寿命ももらって帰っていった。
「だから私とお父さんはいまサルの寿命分を生きているというわけよ」
数年前に還暦を過ぎた母は面白そうにそう言った。
ロバやサルの寿命はよく知らないがイヌで18年といったらかなりの長寿だ。昔うちにも犬がいたが16年生きてそれでも長寿だと言われた。
ただ寿命というものは普通に健康的に生きてどの位という時間だから最大限健康的に生きればそのくらいなのかもしれない。ちょっと前に犬の最高年齢更新というニュースがあったが猫ほど永くは生きれないんだと思う時間でしかなかった。18年はある意味妥当なのかもしれない。
ロバやサルの寿命もその年数が妥当な時間なのかもしれない…そう思ったときなんだかすごく申し訳ないような気持ちがした。
人間に使役されるロバが寿命を多く返上した。ロバはロバとしての生まれた意味も意義も考えるまもなく人に利用され死んでいくのだ。その上短くなった時間は当の人間に持っていかれてしまっているのだからなんとなくやりきれない。
ロバ・イヌ・サルの寿命の長さは人に接する割合に密接に係っている印象がある。人間に利用される割合が高いほど短い。
イヌも警察犬や盲導犬として育ったものは10年ほどすると疲れきって年齢以上に衰えてしまうという話を聞いたことがある。まるで痴呆症の老人のように今まで当たり前にできたことができなくなっていくのだと。どのくらいの付加を強いているのかそう思うと居た堪れない気持ちがする。
当の人間は当たり前のように他の生き物を支配している。ロバを使役しイヌを利用し、作物に害を与えるサルを駆除したり見世物にしたり……なんとも罪作りな生き物であると思わずにいられない。
そして今ヒトの寿命は80年を超えた。
30年ほどの命しか持たない生き物のはずであったヒトがこれほどの寿命を持ったのは社会形成と道具の利用そして医療の発達の賜物である。野生動物では肉体の衰えは死を意味するが、ヒトはこれらのおかげで衰えても生き続けることができるようになった。
しかしふと本当にそうなのだろうか、と母の話を聞いて私は思った。
ヒトの寿命の延長は本来は別の生き物の寿命であったものを強引に奪い取ったためではなかったかと。ヒトが30年ほどの命の動物のままであれば現状より他の生物の寿命も長かったのではないか。
生態系の頂点を自らの手で塗り替えてしまったヒト故に他の生物の寿命が短くなってしまったのではないだろうか?
猫や犬は人間が飼うようになって寿命が延びた、という人がいるかもしれない。そう思い込むことさえすでにヒトという生物が傲慢になっているのではなかろうか。同じ地球上の生物に対し主従の関係を強いている。
もともと人間が持っていたものにロバとイヌとサルの寿命を足して70年、現在の80年以上の寿命はあとどの生き物からもらってきたものなのだろう?
そして人間はそれをもらうに相応しい生き方ができているのだろうか?それを与えてくれた神様に顔向けできる寿命の利用をしているのだろうか?
アラフォーの私はすでに人の寿命を越え、いまロバの寿命を生きている。
昔ある少女漫画でこんな風な台詞があった。
『夢を見るのは目覚めた時に良かったと思うためだ。良い夢の時は良い夢で良かったと思い、悪い時は夢で良かったと思うのだ』
今手元にないので細かな文言は違うと思うがだいたいこんな内容だったと思う。
昨年末には夢を殆ど見なかったのだが、最近はまたよく見るようになった。それも大抵は「なんでこんな夢を見たんだ?」と首を傾げたくなる内容ばかりだ。
子供の頃人から夢に見ることは自分の心の中で望んでいることだと言われ、とてもそんなゆめゆめしいものでなかったため自分はこんな事を願っているのかとひどく悩んだ時期もあった。
毎晩毎晩同じ夢を見続けていた頃人にそれを話したらきっとそれはあなたの前世だよと言われ、結末が悲劇的だったことから今世も思いやられると嘆いたこともあった。
私の母はよく夢を見る人で朝起きると見た夢の話を良くしてくれる。しかし彼女は自分の好きな芸能人と会ったりなどそれこそ『良い夢を見れて良かった』と思う内容ばかりだ。
それに比べ私の夢はいつも首をひねりたくなるものばかりだ。
悪いと言うほどでもないが何より後から思い返して、『どうしてこんな夢を見たの?』というものばかりなのだ。
例えば全く知らない場所で全く知らない人達が私の知らない話を延々と討論していたり、警察官がなんの事件かわからないが誰かを追いかけるのをずっと横から見ていたり、1週ほど前には何故か福○雅治氏と見合いをしたのか周囲で結納を交わすことになっていやそれはまずいだろうと一人焦っている夢だった。(私は別に福○氏のファンではない)
そのいずれの夢も起きた時ひどく疲れを感じて朝からこれは無いだろうとため息を吐きたくなるのだ。
そして今日見たのは私が近所の川縁を歩いていると突然地面が揺れあちこちが地割れする、みんなは大地震だ富士山爆発だと騒ぐけど私は一人違う何が爆弾のようなものが落ちてきたんだと言って回っているのだ。
おまけに大地震のようなことがあっても誰もけが人や死者がいないのは良い(ついでに割れるのは地面だけで建物は無事)が頭の上から何かが近づいてわぁ~当たる~と思いながら(恐怖は感じていない)自分がどこもけがをしていないことを何も疑問に思わないのは何故なんだろうとどこかで私が冷静に考えていたりするのだ。
地震だ爆弾だと騒ぐ私とそれを第三者的に見てそうじゃないだろうと突っ込む私を私が夢で見ているわけでなんというか眠っているのに余計に動いていますといわんばかりに疲労していくのだ。最後はたぶん頭がさえてきたのかこのまま起きないと余計に疲れると目を覚ますことにしたくらいだからよほどである。せっかく日曜日でゆっくり休もうと思っていたのにとんでもない睡眠になってしまった。
私は母が見るようななんか今日良い夢見たよと言うものは殆ど無い。
断続的に色んな夢を見て(渡って?)、起きた時内容も思い出せないけどなんか疲れたなということが殆どだ。
そして時々今日みたいに一つの事象に対して延々と世界が展開していく長編ムービーみたいな非常に疲れる夢を見る。
正直私の中では「夢を見る=疲れる」に等しい。
学生の頃夢判断のようなことが流行り見てもらったらと言われたこともあるが、ポジティブというか起きた時良い夢と感じるものをを見ない以上良いことを言ってもらえるとは思えず一度もそういうことはしなかった。そのうち良い夢を見ることもあるだろうとその頃は思っていたのかもしれない。そして今に至ってしまっている。
これは悪い夢だと感じるものも殆ど無い。夢で良かったなとも思ったことは無いに等しいと思う。
そう言う意味では私の夢は冒頭にコミックの定義には当てはまらない。良かったと思うための夢ではないらしい。
私の夢は見て良い夢でもなく夢で良かったと思う程でもない。だけど「なんでこんな夢を見たんだろう」これからもそう感じる夢をずっと見続けていくのだろうか?そう思うと夢なんか見ない方が良いと思わずにはいられない。
『夢を見るのは目覚めた時に良かったと思うためだ。良い夢の時は良い夢で良かったと思い、悪い時は夢で良かったと思うのだ』
今手元にないので細かな文言は違うと思うがだいたいこんな内容だったと思う。
昨年末には夢を殆ど見なかったのだが、最近はまたよく見るようになった。それも大抵は「なんでこんな夢を見たんだ?」と首を傾げたくなる内容ばかりだ。
子供の頃人から夢に見ることは自分の心の中で望んでいることだと言われ、とてもそんなゆめゆめしいものでなかったため自分はこんな事を願っているのかとひどく悩んだ時期もあった。
毎晩毎晩同じ夢を見続けていた頃人にそれを話したらきっとそれはあなたの前世だよと言われ、結末が悲劇的だったことから今世も思いやられると嘆いたこともあった。
私の母はよく夢を見る人で朝起きると見た夢の話を良くしてくれる。しかし彼女は自分の好きな芸能人と会ったりなどそれこそ『良い夢を見れて良かった』と思う内容ばかりだ。
それに比べ私の夢はいつも首をひねりたくなるものばかりだ。
悪いと言うほどでもないが何より後から思い返して、『どうしてこんな夢を見たの?』というものばかりなのだ。
例えば全く知らない場所で全く知らない人達が私の知らない話を延々と討論していたり、警察官がなんの事件かわからないが誰かを追いかけるのをずっと横から見ていたり、1週ほど前には何故か福○雅治氏と見合いをしたのか周囲で結納を交わすことになっていやそれはまずいだろうと一人焦っている夢だった。(私は別に福○氏のファンではない)
そのいずれの夢も起きた時ひどく疲れを感じて朝からこれは無いだろうとため息を吐きたくなるのだ。
そして今日見たのは私が近所の川縁を歩いていると突然地面が揺れあちこちが地割れする、みんなは大地震だ富士山爆発だと騒ぐけど私は一人違う何が爆弾のようなものが落ちてきたんだと言って回っているのだ。
おまけに大地震のようなことがあっても誰もけが人や死者がいないのは良い(ついでに割れるのは地面だけで建物は無事)が頭の上から何かが近づいてわぁ~当たる~と思いながら(恐怖は感じていない)自分がどこもけがをしていないことを何も疑問に思わないのは何故なんだろうとどこかで私が冷静に考えていたりするのだ。
地震だ爆弾だと騒ぐ私とそれを第三者的に見てそうじゃないだろうと突っ込む私を私が夢で見ているわけでなんというか眠っているのに余計に動いていますといわんばかりに疲労していくのだ。最後はたぶん頭がさえてきたのかこのまま起きないと余計に疲れると目を覚ますことにしたくらいだからよほどである。せっかく日曜日でゆっくり休もうと思っていたのにとんでもない睡眠になってしまった。
私は母が見るようななんか今日良い夢見たよと言うものは殆ど無い。
断続的に色んな夢を見て(渡って?)、起きた時内容も思い出せないけどなんか疲れたなということが殆どだ。
そして時々今日みたいに一つの事象に対して延々と世界が展開していく長編ムービーみたいな非常に疲れる夢を見る。
正直私の中では「夢を見る=疲れる」に等しい。
学生の頃夢判断のようなことが流行り見てもらったらと言われたこともあるが、ポジティブというか起きた時良い夢と感じるものをを見ない以上良いことを言ってもらえるとは思えず一度もそういうことはしなかった。そのうち良い夢を見ることもあるだろうとその頃は思っていたのかもしれない。そして今に至ってしまっている。
これは悪い夢だと感じるものも殆ど無い。夢で良かったなとも思ったことは無いに等しいと思う。
そう言う意味では私の夢は冒頭にコミックの定義には当てはまらない。良かったと思うための夢ではないらしい。
私の夢は見て良い夢でもなく夢で良かったと思う程でもない。だけど「なんでこんな夢を見たんだろう」これからもそう感じる夢をずっと見続けていくのだろうか?そう思うと夢なんか見ない方が良いと思わずにはいられない。
思えば初めてだったりする
2010年1月29日 雑記大学時代はバイトの時代だ。稼ぎまくった時やほどほどや時期によって様々違うがバイトをしていない時間はあまりなかった。
そして卒業後、3社(契約を含めれば4社)を10数年で渡り歩いてきた。前の会社が一番長くて7年半、そして今の会社に入って丸2年経ったころだ。
初めて給料が上がった!!
思えば大学のバイトの時、優しい店長と同じ時間帯の人たちはどんどん時給が上がるのに、私のシフト時間は副店長が監査をするため全く上がらず(私だけでなく他の人も・・・)結構悲しい思いをした。
前の会社では上げる上げると言う割に一度もあがったことはなく、そのことを口にすると「蒼海さんは売り上げの集計をしているからわかるでしょう?」と嫌らしい事を言ってくる。上げられないなら上げるなんて言わなければいいのに、調子の良いことばかり口にして行動が伴わない典型的な口だけ上司の下で下がらなければまぁいいや位で過ごしてきた。
自分自身熱心に会社にアピールしてきたわけではないので上がらなかったことを会社だけの責任だとは思っていない。ただ・・・女性事務員が給与のことを口に出すのは難しいとずっと思ってきただけだ。
そして今月、初めて給与が上がるという経験をした。
給与明細を見た時、いつになく残業が多かったせいもありかなり高額で感動してしまったくらいだ。
実を言えば11月に「来月から上げてあげる」とすでに上司に言われていた。しかし12月の明細では上がっていなかった。12月の壮絶な喧噪で上司が忘れてしまったためだ。正直がっかりしたのだが、今月それも吹き飛んだ。
今は不況で仕事のない人も多い。私が大学卒業した頃からそうだったので金額について口に出しにくかったと思っている。そして今はその頃よりも更に悪くなった気がする。離職してすぐ職に就ける可能性は当時よりかなり低い。
そんな中初めて給与が上がるという経験をしたわけで私はかなり恵まれていると思わずにはいられない。公務員や大会社のように昇級が常にある安定職ではないから尚更だ。
ひとつ残念だったのは上がった金額は手当であって基本給ではなかった。手当では年金や退職金の金額に上乗せできない。
また昇級が毎年あるわけではないようなので次にいつ上がるかわからない。そう言う意味では不安定な現状だ。
それでも今だけは素直に手取りが増えたことを喜びたい。増えても使わず貯蓄に回るだけだが気分的に増えたという実感を得ることが出来たことは大きい。まだまだ先が見えない世の中だが少しだけ希望を抱けた気がした。
そして卒業後、3社(契約を含めれば4社)を10数年で渡り歩いてきた。前の会社が一番長くて7年半、そして今の会社に入って丸2年経ったころだ。
初めて給料が上がった!!
思えば大学のバイトの時、優しい店長と同じ時間帯の人たちはどんどん時給が上がるのに、私のシフト時間は副店長が監査をするため全く上がらず(私だけでなく他の人も・・・)結構悲しい思いをした。
前の会社では上げる上げると言う割に一度もあがったことはなく、そのことを口にすると「蒼海さんは売り上げの集計をしているからわかるでしょう?」と嫌らしい事を言ってくる。上げられないなら上げるなんて言わなければいいのに、調子の良いことばかり口にして行動が伴わない典型的な口だけ上司の下で下がらなければまぁいいや位で過ごしてきた。
自分自身熱心に会社にアピールしてきたわけではないので上がらなかったことを会社だけの責任だとは思っていない。ただ・・・女性事務員が給与のことを口に出すのは難しいとずっと思ってきただけだ。
そして今月、初めて給与が上がるという経験をした。
給与明細を見た時、いつになく残業が多かったせいもありかなり高額で感動してしまったくらいだ。
実を言えば11月に「来月から上げてあげる」とすでに上司に言われていた。しかし12月の明細では上がっていなかった。12月の壮絶な喧噪で上司が忘れてしまったためだ。正直がっかりしたのだが、今月それも吹き飛んだ。
今は不況で仕事のない人も多い。私が大学卒業した頃からそうだったので金額について口に出しにくかったと思っている。そして今はその頃よりも更に悪くなった気がする。離職してすぐ職に就ける可能性は当時よりかなり低い。
そんな中初めて給与が上がるという経験をしたわけで私はかなり恵まれていると思わずにはいられない。公務員や大会社のように昇級が常にある安定職ではないから尚更だ。
ひとつ残念だったのは上がった金額は手当であって基本給ではなかった。手当では年金や退職金の金額に上乗せできない。
また昇級が毎年あるわけではないようなので次にいつ上がるかわからない。そう言う意味では不安定な現状だ。
それでも今だけは素直に手取りが増えたことを喜びたい。増えても使わず貯蓄に回るだけだが気分的に増えたという実感を得ることが出来たことは大きい。まだまだ先が見えない世の中だが少しだけ希望を抱けた気がした。
最近チョコレートに嵌っている。ほぼ毎日一箱あけていると思われる。せっかく体重を半年掛けて落としたのにこのままではすぐに戻ってしまいそうだ。
冬になると何故かわからないが店先に色々な種類のチョコレートが並ぶ。毎年幾つかを買って味わっているが、この冬はこれまで全くそう言うことがなかったのにここ1週間ほどですっかり例年通りの行動に戻ってしまった。
体重が落とせたという達成感もあるのだろう。ずっと我慢してきたから、という気持ちもある。しかしこう毎日になってくるといい加減問題だという焦りが出てくる。
別に毎日一口二口食べることを問題だとは思わない。他で自重すれば吸収できる。
しかしながら私はチョコレートの場合一口ではすまなくなる。封を切ってしまうと食べきるまで止められないのだ。
開けてしまうと食べきってしまうのでなるべく買わないようにするしかない。しかしこういう時に限って外に出歩く仕事が多かったりする。買い物する際に目に入るとどうしても手に取らずにいられない。
他の菓子の場合あまりこういう事はない。チョコレートも寒い時期だけだ。
これは毎年のことを諦めるべきか、何とか食べ過ぎないような対策を立てられるか・・・誘惑に弱い私は今年も諦める方になりそうである。
冬になると何故かわからないが店先に色々な種類のチョコレートが並ぶ。毎年幾つかを買って味わっているが、この冬はこれまで全くそう言うことがなかったのにここ1週間ほどですっかり例年通りの行動に戻ってしまった。
体重が落とせたという達成感もあるのだろう。ずっと我慢してきたから、という気持ちもある。しかしこう毎日になってくるといい加減問題だという焦りが出てくる。
別に毎日一口二口食べることを問題だとは思わない。他で自重すれば吸収できる。
しかしながら私はチョコレートの場合一口ではすまなくなる。封を切ってしまうと食べきるまで止められないのだ。
開けてしまうと食べきってしまうのでなるべく買わないようにするしかない。しかしこういう時に限って外に出歩く仕事が多かったりする。買い物する際に目に入るとどうしても手に取らずにいられない。
他の菓子の場合あまりこういう事はない。チョコレートも寒い時期だけだ。
これは毎年のことを諦めるべきか、何とか食べ過ぎないような対策を立てられるか・・・誘惑に弱い私は今年も諦める方になりそうである。
昨日家に帰ったらベッドの上に買ったばかりの枕が置いてあった。最近よく見かける首のところが高くなったものだ。
私は普段枕を使わない。出かけたときホテルや旅館で付いていると使う事もあるのだが基本無くても構わないと思っている。
たぶん子供の頃かなり厚い枕を使用していて寝返りをうっているうちに頭が落ちて起きることが嫌だったのだろう。その為ずっと枕なしで生活してきた。
枕も数十年経つうちに随分形状が変わってきた。健康志向の今は枕の形にもこだわるようになり寝姿の健康法などの本もある。私としては健康的に寝ることよりまず「眠れるかどうか」の方が問題であるので今まで気にしてこなかったが周囲から「あまり良くないらしいよ」といわれることが多くなるとそんなものかなと思えてくる。
そんなわけでせっかく買ってもらったので新しい枕を使う事にした。今までなしできたので随分頭の位置が高く感じる。また既製品であるので枕の首の高さと頭の高さが自分に合っているわけではなく違和感はある。
だが思ったより昨日はすんなり眠ることが出来た。眠りは浅く何度も目が覚めるのはいつものことなので取りあえず眠れたと言うことには安堵した。
眠りは最も体を休める大事な時間だ。そんな休息の時間が休息できるかどうかで悩むのはなかなか辛いものがある。少しでも長く休める時は休みたい人間であるので上手く新しい枕になじめ今までより眠れるようになってくれればと願っている。
私は普段枕を使わない。出かけたときホテルや旅館で付いていると使う事もあるのだが基本無くても構わないと思っている。
たぶん子供の頃かなり厚い枕を使用していて寝返りをうっているうちに頭が落ちて起きることが嫌だったのだろう。その為ずっと枕なしで生活してきた。
枕も数十年経つうちに随分形状が変わってきた。健康志向の今は枕の形にもこだわるようになり寝姿の健康法などの本もある。私としては健康的に寝ることよりまず「眠れるかどうか」の方が問題であるので今まで気にしてこなかったが周囲から「あまり良くないらしいよ」といわれることが多くなるとそんなものかなと思えてくる。
そんなわけでせっかく買ってもらったので新しい枕を使う事にした。今までなしできたので随分頭の位置が高く感じる。また既製品であるので枕の首の高さと頭の高さが自分に合っているわけではなく違和感はある。
だが思ったより昨日はすんなり眠ることが出来た。眠りは浅く何度も目が覚めるのはいつものことなので取りあえず眠れたと言うことには安堵した。
眠りは最も体を休める大事な時間だ。そんな休息の時間が休息できるかどうかで悩むのはなかなか辛いものがある。少しでも長く休める時は休みたい人間であるので上手く新しい枕になじめ今までより眠れるようになってくれればと願っている。
1日過ごすうちに時々今日はこのことをブログに書こうとおもうことがある。しかしいざPCに向かうとそれを書くと言うことはあまりない。たぶん自分の中ではもうそれは書くほどのことではなくなっているのと、こう書こうと思って考えていた文章に飽きが来ているからだろう。そんなことが続いたためここ数日結局更新をサボってしまった。
何となくだが・・・たぶん今軽い鬱状態だ。些細なことでひどく落ち込むし色んな意味で関心が薄れている。やる気も出ない。
そんな私の今唯一の楽しみは猫ブログめぐりだ。
毎日訪れている友人のブログからたまたまたどり着いたところであるが可愛い猫の写真と愛情たっぷりの文章にとても癒されている。のら猫を家猫にする活動もされているので色々病気など大変そうだがそれにも負けず戦っていることにとても頼もしい。
自分もこうありたいなぁと思うのだがなかなか人間ができてこないようだ。くだらない出来事に一喜一憂してそんな自分に疲れてしまっている。
ブログの愛らしい姿に癒されながら、そのぬくもりが欲しいと夜夢を見る。いつかそれが叶うのだろうか・・・ささやかな願いである。
何となくだが・・・たぶん今軽い鬱状態だ。些細なことでひどく落ち込むし色んな意味で関心が薄れている。やる気も出ない。
そんな私の今唯一の楽しみは猫ブログめぐりだ。
毎日訪れている友人のブログからたまたまたどり着いたところであるが可愛い猫の写真と愛情たっぷりの文章にとても癒されている。のら猫を家猫にする活動もされているので色々病気など大変そうだがそれにも負けず戦っていることにとても頼もしい。
自分もこうありたいなぁと思うのだがなかなか人間ができてこないようだ。くだらない出来事に一喜一憂してそんな自分に疲れてしまっている。
ブログの愛らしい姿に癒されながら、そのぬくもりが欲しいと夜夢を見る。いつかそれが叶うのだろうか・・・ささやかな願いである。
1.15日支払いのデータを送り忘れる。
2.早めにそのことに気がついて銀行で手続きするが鞄を忘れて取りに戻ることに。
3.銀行に行くならついでに法務局で書類をもらおうと寄るが用意したカードを持って来忘れてまたいく羽目になる。
4.大事な来客のためのお弁当を取りに行くが座席から落とす。
5.一緒に飲むペットボトルのお茶も持ちきれずに落とす。
6.帰り間際になってそのお客にお土産を持たすことになりそれを買いに行くように言われて嫌な顔をしてしまう。
7.会社帰りにドラックストアに寄り帰る時車をバックしたら危うく事故りそうになる・・・・・・
本当に今日は自分の間抜けさにうんざりする一日でした。
仕事に効率の良さを求める私にとってはこの自分の不手際加減は許せないものがあります。
救いはどれも大事にならず結果からすれば無事に済んだと言うことでしょうか?
来週はこんな事がないように気をつけたいものです。
2.早めにそのことに気がついて銀行で手続きするが鞄を忘れて取りに戻ることに。
3.銀行に行くならついでに法務局で書類をもらおうと寄るが用意したカードを持って来忘れてまたいく羽目になる。
4.大事な来客のためのお弁当を取りに行くが座席から落とす。
5.一緒に飲むペットボトルのお茶も持ちきれずに落とす。
6.帰り間際になってそのお客にお土産を持たすことになりそれを買いに行くように言われて嫌な顔をしてしまう。
7.会社帰りにドラックストアに寄り帰る時車をバックしたら危うく事故りそうになる・・・・・・
本当に今日は自分の間抜けさにうんざりする一日でした。
仕事に効率の良さを求める私にとってはこの自分の不手際加減は許せないものがあります。
救いはどれも大事にならず結果からすれば無事に済んだと言うことでしょうか?
来週はこんな事がないように気をつけたいものです。