今年入社して私の仕事を引き継いだ新人の仕事が様々な意味で社内の問題視されていた。だがなかなかいい人が入社してこないため仕方なく(周囲が色々フォローしつつ)彼女がこの仕事を続けていた。しかしながらとうとうとんでもないしかも決定的なミスで客先のクレームを受けることになった。

簡単に言えば商品の未着である。今日着で連絡した商品が今日着かないと言うことだ。しかし工場からは最初から連休明けになると言う返事を貰っていた。完全に彼女個人のミスである。

通常なら翌日には着くが不幸なことに連休前だ。今日着かなければ3日後になる、それではあまりにも遅すぎる。今まで何度も休み前の受注には特に気をつけなさいと言っていたのだがついに起こるべく起こってしまったクレームだった。

お客様は当然悪くない。そして工場も今回は悪くない。悪いのは作業をした新人事務員である。しかしながら彼女は自分がしでかしたクレームの大きさを全く理解してくれない。
会社にいた営業総出で走り回り電話を掛けまくり今日着は無理でもなんとか明日には着くように手配をした。売上金額からすればそれにかかる経費はその10倍以上、さらには会社の信用問題にも及ぶ。
だが工場から戻ってきた彼女は最初に彼女に知らせた私に一言「すみません」と言っただけだった。電話を掛けまくった営業さんにも荷物を集めた他の事務員にも一言もない。更にはそのクレームがどうなったのか知ろうともしない。

私に謝ったのは私が電話口で怒っていたからだろう。
お客様が荷物が届かないため困っているとか会社の信用に関わるようなトラブルだとか全く感じていないのだ。

なんでこんなミスをしたのか聞いてもただ黙るだけである。今日だけではなく全てに関して彼女はそうだ。都合が悪いと黙り込む。相手がじれて怒るのをただ聞くだけだ。全く懲りてくれない。これだけ怒ったのだから懲りて欲しいと願っていても「私は打たれ強いので大丈夫です」などと訳のわからないことを言う。

私たちが彼女に言う「大丈夫?」は彼女が、ではなく仕事が、である。彼女は軽く大丈夫ですと答えるのだがそういわれれば言われるほど私たちは不安になる。そしてついに今日大事を起こした。

起こしてみて知ったのはこういうクレームは実はもう何回もやっているということだった。彼女は自分のクレームを報告もしていなかったのだ。それも彼女から聞いたのではなく相手先から言われて知ったのだ。これほど恥ずかしいことはない。
本当に前もこういう事があったのか訪ねてもただ黙るだけである。あったともなかったともいえないからだろう、彼女にとって仕事というのは所詮その程度の物なのかもしれない。

もういい加減言うべきことは言い尽くした気がしていた。実際彼女は言われたことは覚えているようだ。だができない。紙を奇麗に束ねる、そんなことすら出来ていない。これでは小学生以下だ。

毎日毎日同じ事も何度も注意されてそれでも出来ないでいる。私であったら恥ずかしく会社に出てこれなくなる気がするのだが、自称「我慢強い」彼女は全く気にならないらしい。ある意味うらやましい位の神経である。
しかし現実として会社で雇用した人間である。本人が辞めると言わない以上使い方を考えるしかない。だが責任を自覚できない人間に出来る仕事などあるのだろうか?

給与を貰うと言うことがこれほど理解できない人間を見たのは初めてだ。同時に日本人でありながら日本語が通じないというのことも。
どう言えば通じる、どうすれば理解できる、そんなことばかり考えながら話すことにここは幼稚園か動物園かと思ったりするのは、私の心が狭いからなのだろか?
たぶんストレスからだと思う、ここの所体調が悪い。
病気という訳じゃない。熱もないし咳も出ない。
でもなんとなく具合が悪い。そのせいで鬱気味である、いやもしかしたら全ては逆かもしれないが。

色々原因はあると思うが一番は今日のタイトルだろう。つまり、物事が上手く進まない、である。

例えば勉強・・・簿記の勉強はもう全く進んでいない。すでに11月の受験は諦めたため余計にやる気の程度が下がっている。更にやってもろくに覚えられないのが癪に障る。

そして運動。朝夕のウォーキングを始めて2ヶ月弱になるが正直体力や筋力がついたという感じはない。試しに一時期ジョギングをしてみたが15分と持たなかった。多少サイズダウンしたような部分がある気はするが水分が抜けただけかもしれないと思うと悲しい。

そして節制による減量である。実は節制自体は運動よりもっと前からしている。間食をなくし体重を戻そうとしたが出来なかったので運動しだしたからだ。だが増加は防げたが運動しても思ったほど減少はない。だからずっと食事の節制は止められない。
炭水化物好きの私がそれを半減した食事をもう何ヶ月も続けているのだからいい加減あれも食べたいこれも食べたいという意識が巡るのが押さえられない。

そんなこんなが折り重なったためか最近気分の浮き沈みが激しい。おまけになんだか体調が悪い・・・しかしながらこれらの理由についてはまだしばらく状況が続くため解決できない。先が見えないこともまたストレスになっているのかもしれない。

何事も簡単には事は運ばないが、たまには目先ががらっと変わるような意識の変化があると滅入った気分も多少浮上するのに、と見えない何かに縋り付きたくなる心持ちである。




タンスの肥やし

2009年10月4日 雑記
最近の買い物熱でかなりの買い物をした。
鞄に始まり化粧品や日用雑貨そして秋冬用の衣装・・・と毎日のように届く荷物に流石に親も眉をひそめだした。しかしながらどちらかといえば締まり屋というかケチな私の買い物である。一つ一つの値段を言うと「いい年なんだからもっと良い物を持ちなさい」と今度は逆の意味で呆れられてしまう。今まであまり自分からそういった物を買う意欲を持たない事を嘆かれていたが、買ったら買ったでそういわれてしまうと子供の立場という物も何年経っても難しいと改めてため息を吐きたくなってくる。

それはさておき貴重な休日の今日久しぶりに衣類の整理をした。新しく買った衣類を収納するスペースを作ろうと思ったのだ。
普段あまりタンスの中を開くことがないためどうせ着ない服なんだからこの際みんなまとめて捨てようと一念発起したのだ。

しかし・・・その考えはすぐに頓挫することになる。

改めてタンスを見ると「私なんでこれを着なかったんだろう?」と思う服が色々出てきたのだ。
もちろんまず着ないだろうという服もある。だがそういった服は大抵人からの貰い物なのでおいそれとは捨てられない。まだ当分肥やしになってもらわねばならないだろう。
だから捨てる候補はかつて自分で選びサイズが合わなかったり生地が痛んだり年齢にあわなくなった物、である。

今回多めに買ったのはレギンス類である。普段ジーパンばかりなのでそれ以外でもう少し気楽に着れる物を探した結果だ。もっと正直にいうと中年になり体型が変わり昔のジーパンが履けなくなったと思ったのでその代用に用意したのだ。

だからまずはそのジーパン類を多く捨てようと出してみた。
タンスに入っていたジーパンの多くはかなり以前に買った物ばかりだが、最近購入し普段使用している物よりずっと丈夫で物が良かった。もったいないと一瞬考えたが「でも履けないなら捨てるしかないよね」と予定通り処分することにした。
ただ、最後にもう一度履けないことを確かめようと履いてみると・・・履けてしまったのだ。

今はどちらかと言えばゆるめのジーンズを買う。しかしもっと若い頃は体型の出るスリムのタイプが多かった。だから年齢が上がり着れなくなったと思っていたのだがここ一月半ほどしている運動で若干サイズが落ちたのか、多少きつい物もあるのだが一応全て着用することが出来てしまったのだ。

「あれ?着れるじゃん!」と一瞬喜んだのだが、これでは新しい服を入れる場所がない。しかたなく範囲をそれ以外のパンツ類に広げ、とりあえず全ての物を試着し直すことになった。
結果ジーパンを1枚とそれ以外のパンツ類を数枚処分対象にした。

そしてトップス類である。こちらも大いに悩むことになった。
自分はそれほど服を持っていないと思っていたのだが、普段使用している物が限られていただけで結構色々持っているのだ。そして意外に今回新たに購入した物とよく似たものがあったりする。結局自分の趣味なので似たような物を選んでしまうらしい。
「こんなことなら調べてから買えば良かった」と後悔してももう遅い。

どちらにせよ思ったほどの処分は出来ず、新しい物を入れるスペースを何とか作った程度にとどまってしまった。
自分のことを意外に自分は知らないと良く思うがこういう部分はあまり知りたくなかったとひどく疲労を感じたと同時に今まで言葉の如くタンスの肥やしになり続けてきた数々の衣類が哀れに思えた。

とにもかくにも何かを欲しがるよりもっと自分は積極的に持っている衣類を活用していかなければと大いに反省した一日だった。

勘違い思い違い

2009年10月2日 雑記
昼休みの休憩室(食堂)はいつもNHKが映っている。
特に見ているわけではない。いつも何となく眺めているだけなだ。そもそも食事だけのために休憩室にいるのでテレビには殆ど関心がない。食べ終わればすぐに退室してしまう。

そんな食事中今日は歌番組が流れていた。
童謡や民謡などの歌が多かったがその中の「赤とんぼ」の時あれっ?と口に入れた物を一瞬落としそうになってしまった。

    ゆうやけこやけの あかとんぼ
    おわれてみたのは いつのひか


日本に住む日本人なら誰でも一度は聞いたことがある歌だ。私だってこの歌は全ての歌詞を歌うことが出来ると思う。それくらいよく知っている歌のはずだった。

しかし・・・テレビ画面に映った歌詞を見て自分が間違っていたことに初めて気がついたのだ。

音として耳に聞くなら先ほどの歌詞は正しく覚えている。
だが、今日のNHKの画面に映った歌詞はきちんと漢字が当てられていたのだ。



    夕焼け小焼けの 赤とんぼ
    負われて見たのは いつの日か


夕焼けの空に飛ぶ赤とんぼを背負われて見たのはいつだっただろう・・・そういう歌詞であると思う。

しかし私は「負われて見たのは」を「追われて見たのは」だと思い込んでいたのだ。つまり(子供などに)追いかけられている赤とんぼを見たのはいつだったのだろう、と思っていたのだ。
漢字ではなく音で覚えたため思い違いをしていたのだ。
初めてこの歌を知ったのはいつだったのかもう思い出すことも出来ないがおそらく30年近く間違っていたことにひどく驚いた。

こういう時日本語とは面白いと感じる。同じ音の言葉も漢字が変われば全く意味が変わってしまう。うっかり捕らえているとこういった間違いも起こるし間違っていても気がつかないまま来てしまうこともある。

歌の歌詞の場合、聞き取っていてもこうして意味を違えることもあるが、聞き取りにくい故に間違って覚えてしまうこともある。
サザンオールスターズに「真夏の果実」という曲があるが、この中に出てくる「四六時中も好きと言って」という歌詞を長らく私は「広く地球を好きと言って」だと思っていたし、聞き間違いは他にも数知れない。

最近の曲は歌詞が音として聴き取れない曲も多くなった。
だからなのか少し前の昔のヒット曲のリメイクブームに妙な安心感を感じた覚えがあったりする。
表現の方法は数々あれど、歌はやはり歌詞を聴かせることが一番だと未だに昭和の感覚しかないアラフォー女は思っている。

虫が騒ぐ

2009年9月30日 雑記
先日鞄を買って以来ネットショッピングに嵌った。

いやネットショッピングに嵌ったというよりも非常に散財しているといった方が正しい。たまたま買い物をするのがネットだというだけだ。

日頃日常使いの物以外の買い物は本や雑誌、DVDやCDが殆どであとは誰かの祝い物を購入するくらいだ。もともと貯蓄が趣味(計算しながら貯めるのが好き)に近く物にあまり興味がないので何か欲しいと思っても切っ掛けがなければまぁいいやで済ませてしまう。

ただ、数年に一度それが崩れる時期がある。
スイッチが入ったというのか異様に散財しだすのだ。必要な物はともかく普段見向きもしない物まで手が伸びる。

最もこれは一過性で数日か1ヶ月程度で治まるものだった。正確に言えば治まるというより散財する手持ちが無くなるのでそれ以上購入できなくなるのだ。そしてまた余り物を買わない毎日に戻っていく。

しかし・・・今は少しこの傾向を案じている。

以前は手持ちが無くなれば買い物が出来なくなった。しかし今の私はカードで買い物をしている。そして前はお金がなければ店に行かなくなるので当然買い物が出来なくなったが今はネットがつながるところならどこでも買い物が出来る。

果たして今のこの散財の衝動が治まる時がくるのだろうか?

このままではまずいなぁとは思いながら今日も秋物の商品をネットショップで眺めてしまっている。
類は友を呼ぶという言葉があるが(私は類が呼ぶのは友ではなく類だと思うのだが・・・それはさておき)アラフォー独身女の私の友人はやはり独身が多い。
かつて友人と呼んでいて今は顔を合わせる機会が無くなった人は結婚している場合も多いのかもしれないが、学生時代から変わらずつきあっている友人になると殆ど結婚していない。

もっとも学生時代から一生結婚しない、子供も産まないと決めている私とは違い彼女たちの多くはいい人がいれば結婚しようあるいはいずれ結婚するんだろう位の意識は持っている。だからみんな見合いを1度以上経験しているしそれ以外でも○○サークルとか結婚相談所のような所に入会した経験のある人が多い。
あくまで彼女たちは機会や切っ掛けに恵まれなかったことと結婚に対する意識が低かった事が現状につながっているのだ。

年齢が高くなってくるにつけ顔を合わせるとそういった会話が登場する頻度が高くなる。出会いを斡旋するパーティーの風景とか色々な見合い話を何人もの友人から聞いてきた。
何も経験のない私はただ聞き役に徹するしかないが、聞いているだけでも色々大変だなとつくづく嫌になってくる。

何が嫌かと言えば結局周囲の反応が、である。

女が30代後半になって結婚をしない(出来ない)と言うことを問題だと言ってくる人が周りにいて色々口出ししてくるのだ。
まだ「いい人がいるから紹介するわ」くらいですめばいいのだがそれも過剰になってくるといらぬプレッシャーになってくる。
また30後半になってしまうと逆に結婚しなくても良いかという気になってくるが、それを認めようとしないと言うことも困る。

こういう話を聞くと女というのは本当に不便な生き物だとため息を吐きたくなる。

男性ならば婚期が遅くても女性ほど五月蠅く言われない。遅くまで結婚しなくてもそれなりの地位にあれば問題にされない事が多いし何より男性は若い嫁さえもらえれば40代50代いや60代になってさえ子供を持つことが不可能ではないからだ。

しかし女性が女性として結婚を考える場合、それは子供を生むことが前提となってくる。健康で安全に子供を産むことを考えればせめて30代前半までに結婚することが望ましい。30代後半あるいは40代でも最近は子供を産むことが多くなってきたが遅くなれば遅くなるほど出産そのもののリスクが高くなるし事故も増える。高齢で出産し原因はさておき障害や病気を持った子供であれば・・・自分の寿命全てを掛けて世話をしても子供のを残して死ぬ可能性も高くなる。それは色々な意味で不幸である。

友人達のお見合いサークルなどの話を聞き始めたのはもう10年ほど前のことだ。
最近はテレビなどで「婚活」という言葉をよく聞くようになったが当時に比べそういった活動の雰囲気が変わっているように聞こえる。以前は男性の方が結婚相手を探すことに熱心だったようだが最近は女性の方が積極的にそういった物に参加するのだという。不景気で良い就職口がなかったりまた少子化が問題だと騒がれているので女性が一人で社会に生きることに問題意識を抱き始めているのかもしれない。

とはいえ私の友人達はそもそも漠然と結婚する時が来たらすればいい位の人たちが多いので最近のそういった風潮には乗れないらしい。だからお見合い会場の雰囲気に及び腰になる事が多く聞いても「最近は全然」という人が多い。
そんな消極的な姿勢にこのままみんな独身のままなのかなぁ・・・と自分のことは棚に上げて心配したりしている。

最近本を買うことが少なくなった。理由はネットで色々文章を読むことが多くなったので本を買ってまで読まなくなったのだ。
だから買うのはもっぱらコミック。しかしそれも最近は減少気味である。私は基本漫画家で読む読まないを決める人間だ。最近の新しい漫画家で惹かれる存在が殆どないため昔からの漫画家の作品が減る傾向に購入数も自然減ってきている。購入金額は変わらない割にここ数ヶ月の○天ブックスの購入金額の5割~9割近く本・雑誌類以外で占めている事からも明らかだ。

それでも時々無性に本が読みたくなる時期がある。ネットで読んでいても本を捲る感触が欲しくなるのか、あるいは音や視覚的刺激を遮断した世界にこもりたくなるのか・・・その辺りの波は自分でもわからないがそういう時は出来るだけ本をたくさん読むことにしている。すでに持っている本を改めて読むこともあるがもちろん新しく購入することもある。

そういう時に読む本は大抵歴史物だ。歴史物の物語だったり人物を取り上げた小説であったりただ単純な歴史書や資料であったり・・・興味があれば種類はこだわらない。地図や資料写真なども(値段が高くて困るが)かなり好きだ。
学生時代は専ら西洋史関係だったが、ここ数年はどちらかと言えば日本史が主流だ。特にここ1年ほどは幕末、主に新選組関係が多い。ネットで検索して読む物もこれに関係したサイトが殆どだ。たぶん創作物がこの辺りが多いのも影響しているのだろう。

歴史物の著書を購入する場合、昔から私は著者が男性であることを確かめて購入する傾向にある。これは学生時代に女性が著者の歴史物がなぜか肌に合わなかったからだ。文体なのか世界観なのか・・・理由は読んだ作者によって変わるが皆駄目だった(外国の女性作家の作を和訳した物は問題ない。駄目なのは日本人女性作家の本)まだ資料的な物は良いのだが物語系になってしまうと殆どお手上げなのだ。

そんなわけで女性だからと言うことで手に取らない著作は数多くあった。

しかし先日久しぶりに西洋史関係の本で女性作家の本を購入した。塩野七生氏の「ローマ人の物語」の文庫を1~3巻まで買ったのだ。

塩野氏の作品は大昔1冊だけ読んだことがある。確かチェーザレ・ボルジア関係の本だったと思う。昔過ぎてどういう印象を持ったのか覚えていないがそれ以上読もうとしなかった事からあまり好まなかったのだろう。
あと私が読んでいた西洋史はスペイン・フランス・オーストリー近辺の中世・近世が主だったのでイタリアのルネサンスそれ以前の歴史には興味がなかったのかもしれない。

そんなわけで塩野氏の作品はほぼ初めての感覚で読み始めた。比較的淡々と書かれているのでそれほど読みにくくはないが、いかんせんあまり詳しくない時代の話なので年号と地理が頭の中で上手く符合しない。
そのため200ページ程度の文庫本を読むのに2時間以上かかってしまった。おまけに私はこの本が元は15冊のシリーズ物の文庫化だと言うことを知らずに買ってしまったためひどく中途半端なところで切れてしまった。(1・2巻は旧本の1巻、3巻は旧本の2巻の1/3の内容だった)

ここ数年日本史関係の本ばかり読んでいたので久しぶりにそれ以外をと思って買ってみたのだが、先を考えればかなり困惑する。現在刊行されている続編だけであと34冊、そしておそらくあと6冊程度刊行されるであろうから計40冊近くになる。読み通すとなると金銭的にも労力的にもまた本棚のスペース的にもかなり負担が考えられる。果たして読み通すことが出来るのだろうか?
どっちかと言えば同じ著者の「レパントの海戦」の方が内容的に興味があるのでこっちの方を先に買ってしまいそうな気がするし・・・

一応本代(DVD含む)として考えている金額は毎月決めてあるので次に買うのは来月以降になる。間が開いてしまうがなるべく本を読む習慣はなくしたくないと思っているので読み始めた以上は最後まで読み通したい。
女性作家だからと変な偏見を持たずにそれを達成できればまた新たな世界が開けるのかもしれないと多少期待している。


嫌な1日だった。

連休明けの仕事だから忙しいのは覚悟していたが、工場で人が足らないため急遽営業事務が手伝いに行くことになり私が変わって営業事務をやることになった。
彼女には3月から4月にかけてマニュアルを渡しやり方を教え仕事を引き継いだ。それから約5ヶ月やってきたはずなのだが・・・あまりにも適当な仕事のやり方に唖然としてしまった。

結局急ぎの発注をした後バラバラに閉じてある注文書を整理して、貯まりに貯まった仕入れ伝票のうち最も手がかかる物を片付けただけで1日が過ぎてしまった。

これだけの汚い仕事ぶり&遅れ過ぎている仕事ではなるほど周囲の人の注意や嘆きが減らないはずだと納得した。今更ながらに申し訳なく恥ずかしくなってしまった。

そのため3時過ぎに彼女が戻ってきた時に思わず思い切り怒鳴ってしまった。
それから私が調べても判別できない内容の物をすぐにやり直しさせたのだが、それもすぐに解決できないため更に怒る・・・結局終業時間までずっと怒り続けることになってしまった。

はっきり言って自己嫌悪である。もう滅茶苦茶落ち込んでいる。

人に注意する、人の行為を正すというのは人格者がするべき事である。私のような徳のない人間がすることではない。それを1日中やっていたのだからもう本当に情けないしみっともない。
だからこうして家に帰ればただ脱力するだけだ。登校拒否の子供のように明日出社拒否したくなってくる。

実際に彼女に怒鳴ったのは彼女に腹が立ったからではない。自分の未熟さに苛立ったためだ。この状態を放置してしまった、彼女に諭すことが出来なかった、何よりこんな仕事の状態を見て腹を立ててしまった自分に憤慨したのだ。もうアラフォーの年齢なのに未だに自分の感情に振り回されている。

とりあえず明日からはもう少し彼女の仕事を注意深く見なければいけないだろう。でもその中で今日のように怒鳴ることは極力ないようにしたい。
自己嫌悪はいつものことだがそれが度を過ぎれば自己崩壊につながる。10代の頃のような不安定さはないがそれでも未だに自分は信じられない部分がある。なるべく感情の振れすぎは避けたい。

冷静に状況を観察し的確に指示を出す―――今日の醜態を反省し生かすことが嫌な1日でも存在した意義があることに出来るのだと思うしか今は出来ないでいる。
ピアノコンサートを見てきた。
といっても大がかりなものでなくいわゆるピアノ教室の発表会だ。姪が登場していると言うことで両親と見に行った。
プログラムを見ると1部2部があって40名ほどが登場するらしい。美術館の横に作られた小ホールが会場だった。

1部は主に子供たち。ピアノを始めたばかりの学齢前の子から中学生位までが19人、最後が先生たちの連弾だった。

姪は2番目に登場した。まだ習い始めてそれほど経っていないのだろうとにかく音が弱くてピアノを叩いている感じが全くしなかった。しかし姿勢と挨拶はその後出てくる年配の子達よりもとても良かった。これから続けていけばピアノは上手くなるだろうからまず良い出来ではなかったのだろうか?

結局1部の20曲を聴いて私たちは帰ってしまったのだが、ピアノの(エレクトーンもあったが)発表会にしてはどの子もみんなリズム感がないのが気になった。覚えた音符を引いていこうという意識が強すぎるのかテンポとか音の強弱とか全く関係ない。時々指を間違えると自分がどこを引いていたのかわからなくなってしまったのか手が震える子までいた。

子供だからなのかみな演奏する時譜面を見ていない、持って来ても居なかった。練習で諳んじた通りに弾こうとしているようだが緊張していれば上手く指が動かないこともある。リズムよりただ覚えた音を進んでゆく演奏の仕方がテンポや曲調をないがしろにしているのでは?と感じてしまった。
譜面を見ながら弾いているのであればたとえ間違っても自分の演奏を見失うこともないし、そもそも鍵盤ばかりを見つめずに曲をもう少し感じながら奏でることが出来るのではないかと思えた。

もう少し大きな子達はまた違うのであったかもしれないが、あまりにもただ演奏することに必死になっている小さな子供達が少しかわいそうだった。音楽はもう少し楽しい物だと間違っても失敗しても構わないのだと教えてあげられたらいいのにと演奏後の挨拶で顔を上げることも出来ない子供の姿に同情の念を抱いてしまった。

日本髪は美しい

2009年9月20日 雑記
JRで開催されているさわやかウォーキングに参加してきた。
両親は2年ほど前から参加していて私も時々連れて行かれていたが、今回は「連休中に家で休んでばかりでは駄目」と言われ強制的に参加することになった。

島田のコースに行くのはこれで2回目だ。
以前はたぶん春先のことだろう、蓬莱橋から牧ノ原の方へお茶畑の中を通るルートだった。延々と続くお茶畑を進んだ記憶がある。
今回は蓬莱橋までは同じだがそこから市内に戻るルートだ。
8時半頃駅を出て12時前に駅に戻る14km弱のコースだった。橋を2回渡ってしまえば後は平坦なコース、川沿いで適度に風が吹き暖かく歩きやすい良い陽気だった。

駅に戻ると駅前のバスターミナルの近くに人だかりができはじめていた。何でも今日は「髷祭り」の開催日で市内の各地で髷を結った女性が練り歩く催し物があったのだ。駅前には12時45分頃くると言うことだったので私たちもせっかくだからと日陰に腰掛けて待つことにした。

40分ほど待つとそろいの浴衣を身につけた74名の女性たちがやってきて3曲ほど踊ってくれた。みな背中に団扇をさしていたがそれにはおのおのの女性たちの髷の種類とそれを結った美容院の名が記されていた。
「これは時代劇でよく見るやつだね」とか「これはあまり見たことのない物だ」とか色んな感想が周囲で聞かれて面白かった。
74名で髪型が35種類あると言っていたから一口に日本髪と言っても色々な種類がある。身分や年齢、立場によって当時は変えていたと言うから奥が深い。
私は時代劇も好きだし時代物の小説も好きだから名前だけは知っていてもなかなか近くで見る機会はないのでこうして一堂に眺めるというのはとても面白かった。中には外国の女性も居たが意外によく似合っていて驚いた。

日本人も体型が変わり髪も染めることが多く結婚式なので和装を見ても似合わないと感じることがあったが、どうしてどうしてまだまだ日本女性に浴衣と日本髪は似合うのだと思った。
似合わないと感じたのは着物を身につけた時の所作がなってないのとやはり鬘であることがわかる和装だったからで、自分の黒髪を生かして地毛で結えばきちんと見えるのだ。
最も今時の美容院では髷を色々結える人は殆どいないだろうからその人にあった物を作るのは難しいかもしれないが・・・

正直日本髪のことはあまり知識はない。でも「島田を結う」とか言葉がある位だしこのような祭りもあるのだから島田市と何か関わりあるのかもしれない。せっかくだからちょっと調べてみようと考えている。
「20世紀少年」の最新作をMさんと見に行った。
私たちは二人とも原作は未読だったので一緒に最初の作品から見ている。最初は流石に面白く感想にも推理が色々出たが2作目はつなぎで詰め込みすぎでとりあえずやることはやっておこうといった感じだと淡泊な感想しか出なかった。

そして最新作であるが・・・私はうっかりブログで感想を見ているうちにネタバレサイトにたどり着いてしまったため何となく結末は知っていた。(もちろんMさんには言ってない)
だからかもしれないが内容よりも背景で動いているゲストキャラやどうやって撮影をしているのかの方が気になってしまった。

はっきりわかったのはカンナたちのライブ会場、あれはきっと千葉のI公園なんだろう。CGで背景(?)は変わっているがあそこは私も野外コンサートに行ったことがあるからたぶん間違いない。映画を眺めながら当時のことを思い出して懐かしくなった。

そのあと近くの喫茶店でMさんとお茶を飲みながら色々話をした。映画の感想よりも先月の飲み会で私が居なかった時の話やお互いの近況などが多かった。

そんな中、高校時代のことで思いも掛けない話がMさんから聞かされた。Mさんは中国に住む彼女から聞いた実話だったらしいが私は全くそんなことを気がついていなかったので凄く驚いた。私にはただ静かで穏やかだった部室でも色々な人間関係が繰り広げられていたのだ。当時から自分は男女の話には疎いと思っていたが本当に鈍いのだと思い知った。

自分が見ている光景も他の人の目で見れば随分違った景色になるのだと20年近く経って知った事実にただ驚くしかなかった出来事だった。
私はあまり物に執着がない。持ち物や衣服は特に。
だからブランドものに全く興味がない。たぶん言われてもわからないブランドの方が多いだろう。
必要なのは使えるかどうかでありそれに安ければそれに越したことはないが続く。

そもそも私は物を買うことにあまり興味がない。物は使う物がモットーなので同じ物をいくつも持つこともない。
一度購入すれば壊れるまで使い続ける・・・そんなこんなで10年以上使い続けている物が結構ある。

だから私はよく父から「おまえは1年中同じ格好をしている」と呆れたように言われる。
会社に行く時はいつも同じ鞄、旅行に行く時は同じ旅行用の鞄・・・というように用途を決めたものをいつも使っているからだ。基本的に決めた物は変えない。

服も結構その風潮がありよく着るコートはたぶん大学時代に買った物だ。良い素材の物を購入したせいもあるが未だに全く遜色ないので同じように着続けている。
その他のスーツなども着る機会がないせいか5~10何年ものがいくつもつるされている。着ないなら捨てても良いかとも思うのだが服として着れる以上捨てるというのも忍びない。そして着ないけどあるという状態はこれ以上数を増やしたくないと言う心理からますます新しい物を買わないと言うことにつながってくる。

おかげでもっぱら購入するのはTシャツやジーパンといった普段使いの服ばかりだ。

そして数少ない購入する物は使うと言うことが前提で買われるのでいつも無難な物ばかりだ。無難と言えば聞こえが良いが結局似たものばかりが集まることになる。普段あまり着ない色や形は着ないかもしれないと言うことで選ばないからだ。

・・・・・・そういういくつかも原因が父の言う「1年中同じ格好」につながっているようだ。いつも同じ持ち物とどこかよく似た服装・・・言われてみればその通りだ。

使える物は使える限りは使用したいと言う心理はある。しかし長く使っていると使えても不都合だなと思う事象も出てくる。

鞄を例にとって言えば、私が舞台物を見に行く時に持って行くのはA4が入る四角い形の物だ。パンフレットを購入するからそれを入れるためだ。
しかしそれはそれこそ学生が学校に持って行くような形をしている。それも10数年前の学生が持っていそうな物で・・・今時の学生はまず持たないだろう。
まだ若い社会人なら持っていても良いかもしれないが、30代後半のおばさんが持つにはおかしいのでは・・・?と思ったりする。

おばさんだからおばさんらしい物を無理して持たなくても良いだろうけど、あまりにも年齢のあわない物を持つというのも問題だ。いままであまり気にしてこなかったが、最近多少自分の身なりをもう少し考えた方が良いのではと思うようにもなってきた。

そんなわけでネットショップをここ数日ちょこちょこと覗いてみた。今までネットで購入するのは殆どが本とDVD、たまに食品位だったが・・・鞄一つにしてもものすごい数の店や商品があることを知った。
実際の店を覗く位では種類に限りがありピンとくる物がなければまた次で良いやという感じになってしまうが、これだけの数の商品を見ると何か買わなければという心理になってくるのが面白い。

数百もの商品を眺めてとりあえず一つ購入してみた。
物を見ないで買うのは初めてでどういう決め手で選べばいいのかわからずとりあえず安い物になってしまったが、これでよい結果が出れば・・・今後も更にネットショッピングの幅が広がっていく事になるだろう。
楽しみのような不安なような・・・でも新しい世界が開けたみたいでちょっと面白い体験だった。






隠し事は難しい

2009年9月16日 雑記
「あれどこまで行っているの?」

朝事務所に入った時、いきなり社長にこう切り出された。
何のことかわからず首を傾げる私に社長はこう続けた。

「今朝歩いてたでしょ。どこまで行ってるの?」

瞬間、ビクッと体が揺れた。
気恥ずかしい思いで苦笑するしかなかった。

確かに私は先月から朝夕ウォーキングを始めた。その姿をどうやら見かけたらしいのだ。これはかなり恥ずかしい。
結局適当に言葉を濁してその場を切り抜けたが、あまり見られたくない姿だったので朝から冷や汗をかいてしまった。

筋力アップ、体力増強、ついでに体重減を狙って始めた早朝歩きだが今までやってこなかった分あまり人目につきたくなかった。そのため今までよりかなり朝早い時間に起き出して今のところ行っている。
実際に歩いていても出会うのは同じく歩いているお年寄り夫婦とか早朝の犬の散歩をする人位、せいぜい5・6名だ。

なるべくならそれ位で済ませたい、と思っていたのだがまさか社長に見られるとは・・・世の中隠し事というものはなかなか出来ないものなんだと思い知った出来事だった。

相反してる?

2009年9月15日 雑記
私は人嫌いである。いや、正しくは自分が嫌いだからあまり人と関わりたくないのだ。嫌いな自分を人と接することで更に嫌悪することがたまらないからだ。
そのせいもあって基本的に人の多いところは好きではない。人が多いそれだけでどっと疲れを感じてしまう。

先週の土曜日に一月ぶりに東京に行ったが、渋谷駅のハチ公口を出た瞬間電車に乗って帰ろうかと本気で考えた。あまりの人混みに吐き気がしたのだ。私は都会では暮らせないとつくづくそう感じた瞬間だった。

「その割にコンサートとか演劇とか大勢の人が集まるイベントが好きじゃないですか?」
何でそんな話になったのかよくわからないが人混みが苦手だと言った私に一回り以上年の離れた若い同僚の事務員がそう尋ねてきた。
人の多いところは嫌だというのに大勢の客が集う舞台ものに好んで出かけていくのが不思議に感じたらしい。

私自身そのことに疑問を感じたことはなかった。
子供の頃から演劇を見るのは好きだったし、(自分でやるのは嫌だが)学芸会のたぐいや学内コンクールなども見るのを楽しみにしていた気がする。
イベントごとが好きなのか、と言われればそうかもしれない。

通常の劇場やホールだと会場にもよるが1,000~1万程度の箱に行く事が多い。野外になるとそれこそ数万人が集う事もある。考えてみれば凄く多量な人数だ。
今年の8月にも野外イベントに行ったが、両日とも3万人ほど集まったらしい。いつになく物販に時間がかかったので今回は多いなぁと感じていたが、人数に気持ち悪いとかそもそも人混みだと感じては居なかった気がする。

イベントや劇場に人が集まる場合、人の流れは基本的に一方に決まっている。物販にしろ入場にしろあるいはトイレにしろ列を作り順序よく進む。時に交錯することはあるが、基本的に集った人の意識は同じ方角に流れている。
イベントそのものの最中もまたそれは同じ。個人個人の勝手な思惑や行動はよほどの都合がない限り許されない。

要するにそういった場に集まる人間は数がどれだけ多かろうと「人混み」にはならないのだ。だから雑多な人の動きや存在に戸惑うこともないし不快にもならない。流れの中に漂い流れに沿って流れていく。自分はその場を構成するただの一部であり、その一部の集合で場は構成されている、そこにいる人の総意によって。

だから渋谷駅を出て見えた人の集団や東京駅の通路を歩く時に感じる疎ましさや不快感は、数多の人が数多の理由を持ってそこに存在することに対して自分の中では消化できない感覚を呼び起こすからなのだと思う。今居る自分の存在を実感できなくなるのだ。

東京駅に降り立つといつもとにかく早く乗り換えたい、駅の外に出たいと痛烈に思う。あの真っ直ぐ歩けない空間が大変に苦手である。だから毎日通勤や通学にあの空間を利用している人がとても凄く感じる。きっと私が長時間あの場にいたら気がおかしくなるのだろう。

だからせいぜいイベントごとで遠出するのは月に1度位だ。金銭的な問題もあるが、好きなことのためとはいえ消耗が激しい。だがあまり期間が空いてしまうとまた何か見たくなってくる。そして普段は田舎でのんびり一人で暮らしたまに都会にまみれてくるのだ。自分は都会では異邦人だと息を潜めながら・・・

自分が好きな空間に入れてホッとするから空気が変えられる舞台ものが私はとても好きなのかもしれない、同僚と話をしながらふとそんなことを思った出来事だった。
私は猫が好きである。私だけでなく家族は皆猫好きである。
犬も飼ったことがあるがそれでわかったことはやはり犬より猫の方が好きだと言うことだったりする。(それでも犬も16年生きた)

初めて猫を飼ったのは確か小学校の中学年の頃だった。
なんだかトイレに入ると猫の鳴き声みたいなものが聞こえる・・・という現象を確かめるべく家の地下に空気孔のようなところから入ってみると野良猫が子供を生んでいたのだ。
親猫がどうなったのか覚えてないのだがその時見つけた3匹の生まれたての子供を飼ったのが初めだった。当初は飼うつもりはなく貰い手を探していたのだが、結局そのまま家に残ることになった。全身黒と雉虎の雄と三毛猫の雌の3匹だった。
数年猫たちは家にいたのだが、その後約半年ごとに1匹、また1匹と姿を消し中2の夏頃には皆居なくなってしまった。猫の習性なのかどこかで事故にあったのかわからず何日も探し続けたことを思い出す。

その数ヶ月後ちょっとした都合で犬を飼うことになったが、2年ほどして結局また猫を飼うことになった。母の知人の家に生まれた黒猫(雄)と腹と手が白く背中や頭が雉虎の雌の兄弟猫だった。
それから彼らは家族の一員として私や弟が大学へ出ても元気に暮らしていたが、昨年・今年と立て続けに息を引き取ることになった。どちらも19歳、かなりの長寿だった。

猫が家にいるのが当然の時間が長かったため居ないことに慣れるのが随分時間がかかった。今でも家のドアを開けるとき、猫が飛び出てくるのではないかと思ってしまうことがよくある。

それでも新しい猫は家にこない。もう飼わないと親が決めたためだ。あと20年生きるとしたら世話ができない可能性があるためだ。私が面倒を見ると言っても良いのだがあまり当てにされていないので結局家族3人だけの生活になっている。

家に猫が居なくなるととたんに猫を見る機会がなくなる。猫に触るなんて皆無である。家にいれば日中野良猫が家の近くを通るのが見えることがあるそうだが、仕事を持っている身としてはそれに出会うのは難しい。

そうなると猫を見る機会はTVくらいだ。テレビ番組やニュースでちょこっと映る猫に非常な喜びを感じるようになった。
そして猫が居なくなって初めて世の中にこんなに猫の登場するCMがあることを実感した。会社や商品には全く反応しないが猫が映ると思わずそこに目がいってしまう。もしかしたら猫好きは私が思っているより世の中に多くいるのかもしれない。

時々無性に猫に触りたい・抱きたいと思うことがある。でも今はその機会がない。それを実感するのが一番猫が居ない寂しさを感じるときだ。
どれだけ今まで彼らに癒されてきたのか・・・夢でも良いから出てきてくれないかとひどく願っている自分が居る。
新卒対象の入社試験があった。私は人事には関係ないが手伝いのため会場に行くことになった。
集まったのは男女併せて約30名、大学名を見てもあまり会社には関係なさそうな学部ばかり。静岡県の有効求人倍率は0.38とちょっと前のニュースで言ってたから仕事を選んでいる余裕はないのかもしれない。

私が大学卒業するちょっと前にバブルが弾け、大学生の就職が氷河期と言われた。私は就職活動をしなかったので「新卒」という経験はなし。リクルートスーツを着て何件もの会社の面接や試験を受けたことはない。(もっともその後普通に就職するために面接を受けることにはなったが・・・)
そんな私は全く経験がないが、たぶん今の大学では就職試験のための指導があると思う。なるべく大学の就職率を上げるためなのだろうが、普通にすべての学生がそれをしてしまうとあまり効果はないなと感じる。

どういう事かというとなんというか一堂にたくさんの入社希望者が集まってしまうと似たり寄ったりでみんな区別つかないのだ。
今日の所は筆記だけで面接はないから別に印象はどうでも良いんだけどなんか見ていて面白みがないな~と。
いや、悪いイメージもないんだけど。みんな一応に礼儀正しいし身奇麗だし・・・持ち物(鞄)までみんな似ている。ただひどく退屈な感じがした。

別に私がやることがなくて暇だったという意味じゃない。
なんというか・・・私を選んでください!って言う覇気が感じられないのだ。顔を見れば凄くかわいい子やそれなりの体格の男の子なんかもいるんだけどだからって欲しいなぁとまでは思わせない。逆にこの中からどうやって選ぶんだろう?と選択する方を心配したりして・・・

今年の新卒が入ったときに私は「最初は何もできないのだから、とりあえず若さとやる気を見せなさい」とことあるごとに言った。しかし入ったのが女の子だったせいか3人とも物静かで自信なさげでそういったものをついに見せることはないまま今に至っている。
これは今年女の子ばっかりだったからかも、と思っていたが今日集まった顔ぶれを眺めていて意外にこれが現代の子たちなのかもしれないと感じた。
より良い高見を目指すと言うより平穏でリスクの少ない人生を、悪目立ちするより横並び、といった風潮が見え隠れする。別に個人の考え方はそれぞれだしいちいち否定するつもりはないが・・・たぶんそれではうちの会社では勤まらないと思うんだよ。別に過酷な現場だと言うわけではないが、言われたことだけをしていけばよい会社ではない。自分で考え人より先に動く気概がないと無理だと思うんだ。ベテランはそれを経験で克服できるが、新人の場合はひたすらそれは若さとやる気で乗り越えるしかない。それが経験を作っていくことになる。

会社では新しい人が入ってきてすぐに辞めていくという状況が続いている。すぐ辞める人の特徴は「動けない」、ということだと私は思っている。若いはずなのに新人なのにベテランの方が遙かに活動的だ。

今は男の子に男らしくとか女の子に女らしくと言ってはいけないと聞いたことがある。それでは若い人に若者らしくと言うものも求めてはいけないのだろうか 。若いんだから年配より頑張って動けと望んではいけないのだろうか。それでは若者は新人はただの未熟なだけの生き物に過ぎないのではないか?
集まった約30もの顔ぶれを眺めながらふとそんなことを考えている自分がなんだかひどく寂しく思えて仕方なかった。
基本的に人から何か指摘を受けることは好きではない。それが仕事のことならなおさらである。ミスをして注意を受けるのは仕方ないから二度と注意されないように気をつけるようになるのは当然のことだ。
だから同じ過ちを複数してしまったときはとても恥ずかしく自分に腹が立ってしまう。

自分が言われることが嫌いだから人に指摘することもやはり好きではない。仕事上のミスについては気がついた時点で言わなければいけないが、一度言ったからには自分で気づいて欲しいと気にはなってもなるべく口出ししないようにしてきた。

それが良くなかったのか、今年入った新人は入社半年経っても自分の仕事がこなせない。他の事務員や営業から何度も同じことを周囲から言われるため「わかってます」「すみません」は口にするが一向に改善しない。

彼女は私の仕事を引き継いでいるため彼女のミスで他の人たちが苦労しているのを見るととても申し訳なく感じてしまう。
だが私はすでに違う部署にいるので、せいぜい忠告という形でしか口を出すことができない。とてもジレンマである。

少し離れたところから見ていて一番悪いなと思うことは、彼女はミスをしても自分でその処理をしないということだ。たぶん最初はできなかったから他の人が代わりに対処したのだろうが、今となっては手を出そうとすらしない。
試しに今日さりげなく受けたクレームがどうなったのか聞いてみたのだが「わかりません」と簡単に言われてしまった。こういう言葉が口に出ると言うことはクレームの意味すら理解できていないのだろう・・・と私の方がため息をつきたくなってしまった。

働くと言うこと、給与を受けると言うこと、責任を持つ・責任を取ると言うこと・・・高卒でろくに家のことさえやってこなかった子にこういうものをどう伝えたらわかってもらえるのだろうか?周囲の人間がひやひやしながら仕事ぶりを見ていることをどうしたら自覚してもらえるのだろうか?

どう言ってもわからないんじゃないか?という空気が大勢を占めつつある中、事務所の片隅で胃の痛い思いを抱いている。
今はネット上でブログやサイトを簡単に持てるようになった。
私も以前は某有名作品の二次創作のサイトを持ってたりしたのだが、それでもあくまでそれはネット上の架空の人物のサイトであり知り合いにも誰にもこれが私の作ったものだなんて教えなかった。同時に見て回るブログやサイトの主がどんな人なのかと直接会って確認したこともなかった。

今現在こうして私がブログをここで書いていることは私の知り合いの誰も知らないだろう。そしてそれで良いのだと思っている。毎日のように日参しているブログの主に会ってみたいとは思わないのと同じように・・・

ところが先日初めてその原則を崩すことが起こった。
つまり、私は初めて自分の知っている人が書いているブログを目にしたのだ。

それは先日書いた10数年ぶりに連絡をくれた高校時代の部活仲間だった彼のブログだ。

検索をしたときもうすでに削除されてしまっていたが彼がかつて自分のサイトやブログを持っていたことを私はすでに知っていた。だから手紙の中にもし今新たにそういうものを作っているのなら教えて欲しいと書いておいたのだ。
そして彼は律儀にも今のブログのアドレスをメールの中に入れてくれたのだ。ネットで素性を知れないことを願う私とはどうも考え方が違うらしい。

そんなわけで私は初めて書き手の人物を知っているブログを読んだのだ。そしてそれはとても面白い経験だった。

通常他人のブログを読む際に読み解く情報は書かれた文字のみである。そして記号として並べられた文字を自らの経験と知識などによって読み解いていく。それが共感できるものであったり、全く理解できないものであったり・・・実際の書き手がどういう意図かよりもその文章を読んだ自分の印象がどうなのかの方が重要だったのだろう。また確認もしようがないのでそれが正しいのか間違っているのかも関係ない。

ところが書いている相手が多少どういう人物かわかっているとこの読み方が全く変わってくる。同じく記号となった文字の羅列ではあるが読み解くのは自分なりの感覚ではなくきっとこの人ならこういう風に書くのだろうと相手に対して持っているイメージに沿おうとするのだ。同じ文字が書き手を知っているか否かで全く違う文章に見えてくる・・・・・・

私にアドレスを教えてくれた彼のブログの内容はもし私が全く知らないで読んだとするなら、書き手は変に難しい偏屈な人物と感じたに違いない。だが書いている相手を知って読んでしまうと、小難しそうに書かれたその文が妙に素直に感じられてしまう。

これは楽しい体験だ。久しぶりにこんな新鮮な感動を味わった。

おそらく彼は私がこんな風に感じていることなど知りもしないであろうが、今改めてわざわざ知らせてくれた彼に心の中でもう一度感謝しないわけにはいかないだろうと思っている。

経理になってから社用車に乗る機会が増えた。
営業事務だった頃も別の工場に行くことは結構あったが、その時は自転車を使うことが多かった。別の工場へは自転車で行っても車で行ってもかかる時間が変わらなかったからそれならば運動不足の解消に自転車で行けば良いと思っていたからだ。

しかし経理になると銀行やら経理士やらこれまでより遠方へ行く用事が増えた。そうなるとやはり車で行くほうが早いので仕方なく社用車を使っていた。

私は普段軽自動車を運転している人間だ。
社用車は役員が乗るような大型の高級車ではないがそれでも自分の軽より長く四角い。軽の小回りになれている人間には長い車のバックは怖い。
社用車はかなり古い車であるので管理の責任者には次に買うときはぜひ軽自動車にして欲しいと何度か頼んだものだった。

そして先週末念願の軽自動車がやってきた。
新しい社用車はスズキのワゴンR。汚れても目立たないように色はシルバー、なかなか可愛い車だ。

本日早速それに乗る機会があったので運転してみた。
事務所兼工場の勤務先はかなり駐車場が狭く出入りに気を使ったがそこは流石に軽自動車。今までよりかなり車体が短いので切り返しが少なくてすむ。
パワーが若干弱く走り出しが少し重いのが気になるがそこは仕方ないことだ。

新車でとにかくきれいだし小回りが利くし良かったなぁと喜ぶ反面ひとつだけどうしてもなじめないものが……それはウインカー音。今まで色んな車に乗ってきたけどウインカーの音が甲高く耳障りな車は初めて。私はウインカーを早めに出すので長時間ピコンピコンと音を聞くことになりとても不快になる。

次に買う車も軽自動車と思っている私だが、スズキのワゴンRはないな…と社用車のウインカー音をに聞きながら考えている。

過去からの便り

2009年9月6日 雑記
ちょっと前に手紙とメールを送った相手から返事が来た。
私はもう送ったことで自分の中で完結していたからその事実にとても驚いた。

送った相手は高校時代の同じ部活仲間だった男。先月行われた飲み会でも現在地不明で全く情報が無い人物といわれたうちの一人だ。
そして同時に先日ネットで色んな人の名前を検索したときに本人の情報に当った3人のうちの一人でもあった。たまたま行き当たった情報のひとつに比較的最近のものがありなんとなく現状がわかったような気がしたため先月の飲み会をネタに連絡をしてみたのだ。次にこういった飲み会があるときは知らせるから連絡のできるメールアドレスを教えて、と。

正直返事が来るとは思っていなかった。
元々人付き合いを旺盛にする人物ではなかった。どちらかといえばオレにかまうなというオーラを身に纏った癖のある人物だ。過去に付き合いがあったからといってそれにずっと付き合うタイプにはみえなかった。
まして高校を卒業して15年以上軽く経っている。1回飲み会で姿を見たことがある気はするが、その後全く音信不通になった人間である。今更連絡したからといって返事が来るはずは無いと踏んでいたのだ。

なのになぜ連絡を入れたのかといえばはっきり言って自己満足だ。
前に書いた気がするが高校時代私がいた部活の部室にいた人達にはそれなりに思い入れがある。自分はともかくみな無事で元気であってほしいと願う気持ちがある。思いがけず近況を知りそれを確認したかったのだと思う。
だから自己満足である以上当人に何かを期待してはいなかった。無視されればそれはそれで全く構わなかった。たぶん私が他の人に同じことをされたらきっと無視しただろうと思うから。

しかしながら返事は来た。
おまけにメアドのみならず、現住所や携帯番号まで教えてくれた。

そういえば妙なところで律儀だったなぁ……と今更ながらに昔を思い返したりしてちょっと面白かった。

飲み会・集会の連絡をいつもみんなに入れてくれる親友に彼の連絡先を教えると彼女も同じことを思ったらしく相変わらずだなぁと笑ったメールが届いた。

しかし10何年もたっていても遠く離れた地で元気でやっていることがわかるのは嬉しいことである。突然の一方的なお願いに答えてくれた彼に今更ながらに感謝したいと思った出来事だった。




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