今年の運勢は?

2010年1月1日 雑記
紅白終了後、毎年のように神社と寺に初詣に。そのまま休んでしまい今年は初日の出は見ず。寒かったし風邪気味なので自重です。

今日は一日なので昼前からMちゃんと宇宙戦艦ヤマトの映画を見に行ってきました。本当は3日に行くつもりだったが明日以降の放映時間が夕方しかなかったので急遽変更。新年早々顔を合わせることになった。初めてのことだったのでなかなか新鮮でした。

映画後Mちゃんはまだ初詣に行っていないというのでどこかに行こうという話に。二人とも行ったことがなかったので護国神社にいってきました。
もう夕方だったがまだまだ参拝客が多く20分ほど待って境内に、平地に建っている神社ですが背後の鎮守の森(?)がなかなか良い風情がありかなり立派な社に見えました。

いつもは神社や寺に行ってもしないが今日は新年ということでおみくじをひいてみることに。
Mちゃんは見事大吉、私はちょっと悲しい末吉wでも書かれている内容はそれほど悪くなかったのでそのまま持って帰りました。
ちなみに内容は
願事・・・思いがけぬ事にて叶う
失物・・・時がたたねば出ず
学問・・・早めに目標を定め全力を尽くせ
商売・・・損にもならず利無
相場・・・損をするあせるな
争事・・・他人に妨げられ負
病気・・・信ぜよ 治る
などなど。争事や商売・相場はいまいちな内容でしたが、無理をしなければ良いだけなので全体的には良いのでは?と思ってます。
ちなみに私が願ったことはBIGの1等が当たりますように、なんですが思いがけず叶うのでしょうか?期待したいようなしたくないような・・・面白い感じがします。

自分は幸運の持ち主とは思ってないので下手に大吉が出るより末吉は身分相応と行った感じで良いのではないでしょうか?まぁなんにせよ年始早々に今日が出てがっかりしないだけ嬉しかったです。

そうそう、ヤマトの映画ですが私はヤマト自体全く知らないといっていいので結構面白かったです。
特にヤマトが発信する時に『宇宙戦艦ヤマト』の曲がかかるところは良いなぁ~と感心しましたね。曲が終わった瞬間に切れてしまうところはもう少し余韻が欲しかったですけど。
効果音にクラッシックが多いところは何となくエヴァンゲリオンみたい、あと敵キャラがナメック星人みたいだ・・・などとヤマトの世界観がわからないだけに妙な印象を抱いて帰ってきました。たぶんこれは正しいヤマトの感想ではないのでもう少し勉強した方が良さそうです。
作中昔の絵柄が出てくるのですが随分違いますね。今時の絵、ということでドラえもんや鬼太郎といった昔からの作品は皆変わってますがそれが良いのか悪いのか私にはよくわかりませんでした。
でも私は全体的に結構面白かったです。続編がいつあるかわかりませんが見に行っても良いなぁと思ってます。

晦日に月が出る

2009年12月30日 雑記
『晦日に月が出る』というのはあり得ないことを表す言葉だそうだ。もちろんこれは西暦になる前の時代の言い回しであり、現代の暦には当てはまらない。

今は太陽暦であるがかつてこの国は太陰暦だった。太陰暦は月の満ち欠けによって定められる。朔に始まり十五日で満月、そして再び欠けてゆく。晦日は当然朔に最も近いわけだから月はない。気にしたことはなかったがそう言われればなるほどと理解できる。

ところで今年の大晦日は明日であるが、実はこの日満月になるそうなのだ。月齢とは関係のない太陽暦であるので別にそうなっても不思議はないのだが、意外に珍しいことらしい。さらに年が明けた明け方にはわずかだが月食も起こるそうだ。この年の瀬・年明けに珍しいことが2つ重なったわけだ。

今日の新聞でこのことを知ったのだが読みながらふと気になったことがある。太陰暦は月の満ち欠けによって定められた暦なので新月である朔の日を初めとした事には理解できる。しかし太陽歴は何を持って今の1月1日を年の初めとしたのだろう?冬至でも夏至でもその中間の彼岸でもない寒さが厳しくなってくるこの時期をあえて初めとした理由とは?どうせなら春になって種をまく時期を初めにすれば良かったのに・・・などと思ってしまった。

普段当たり前に利用していることも思ったより知らずにいるものだと改めて実感した出来事だった。
会社が忙しいことは喜ばしいことなのかもしれない。しかし急がしすぎるという事はなかなか内部にいるものにとっては辛いものだ。私は20日の日曜日と23日の祝日にそれでも休みを取って出かけたが、他の人はもう13日の日曜日以降休んでいない。
そんなわけで今日も日曜日だったが出勤となった。予定では10時出勤で良かったのだが8時過ぎに「早めて欲しい」と電話があり結局9時から5時近くまで働いてきた。体力に自信のない私は座って出来る簡単な内職仕事だがそれでも結構疲れが来る。立って工場内で働く人たちはさぞかし大変だったろう。それも休みがずっと無い状態で・・・

まもなく年末年始休日に入る、30日から4日の予定で。しかしその間会社が本当に休むとはたぶん内部の人間は思ってないだろう。休みと銘打ってある日数の内どのくらい休めるだろうと想像しているに違いない。
実際私は30日は休めない。銀行が営業しているからだ。同じ理由でたぶん4日も出ることになるのだろう。
幾つか予定も組んであるのだが予定通りこなすことが出来るのか微妙な状態だ。

会社が忙しいことは社員としては喜ぶべき事なのかもしれない。しかし度が過ぎるのも色々不都合が起きてくるものだ。ちょうど良いようにとは何事も行かないものだと社内の喧噪にふとため息を吐きたくなった。

1年の終わり

2009年12月24日 ALFEE
まだ今年の日数があるのだが、気分的に私の今年は終了した。
23・24日の武道館コンサートが終了したからだ。後残るのは大掃除と仕事納めといったものだけだ。毎年必ずくる大きなイベントとしてはこの武道館が最後になる。

93年のはじめて武道館に参加してから毎年23・24日は必ず通っている。だから30公演以上見ているわけだ。振り返れば何となく凄いなぁと自分で思ってしまう。それだけALFEEの活動歴が長いと言うことでもあるのだが、私以外にも同じような人が多いからずっと続いているのだろう。

さて今年の2公演は私にとって過去最高に良い席での公演だった。
23日は花道横のステージを真横に見る席で、高見沢氏のギターが裏しか見えないような場所だったが、花道端まで来てくれればちょっと手を伸ばせば届くような気さえするくらい近かった。アリーナの最前列よりある意味ステージには近かった。
そして24日はアリーナAブロックのど真ん中、真っ正面からステージが見れる席だ。今まで30公演以上見てきてアリーナ席になったのはわずか4公演しかなかった。それもみな左右どちらかの端席だったのでこんな風に武道館公演を見たのは初めてだった。友人と二人で武道館じゃないみたい、通常のホールみたいと感動してしまった。

クリスマスならではの楽しみもあったし、初めて聴く曲も久々に聴いた曲もあった。メンバーも武道館と言うことでいつになくテンションが高かったし、見ていて非常に楽しかった。
桜井氏の声の不調が若干気になったが、そこはベテランあと1公演上手くこなしてくれるだろうと思う。

高見沢氏が最後に「クリスマスをずっとこうして過ごしてきた。これからも同じように過ごしていきたい」と言うようなことを口にした。たぶん私も無理しても公演がある限り行こうとするのだろう。それだけ私の中ではこの時期の武道館は1年の中で大切な行事なのだ。
本当はこの時期会社が忙しく日曜祝日無く稼働している。自分だけ楽しむのは気が引けるのだが、もう15年以上こうして繰り返してきたので何とか続けていきたいと願っている。
来年もまたここに来れて良かったと思いたいと1年先の未来をすでに期待している。
年に1度のタカラヅカスペシャルに初めて行った。
静岡から片道6時間、往復で12時間18切符だから行く事が出来る距離だ。

会場は梅田芸術劇場、1年前カラマーゾフの兄弟を見た会場だ。
JRの大阪駅から歩いて10数分で付く会場のはずだが前回は道に迷って25分ほどかかった。その為今回は駅を出る前に方角を確かめることにした。
ところが大阪駅の改札で女性係員に「梅田駅はどこですか?」と尋ねると「どこの梅田駅ですか?」と逆に聞き返された。困るのはこちらである。梅田駅が幾つもあるなんて思いもよらない。とっさのことで阪急鉄道の名前も出てこない。
後に人が並んでいるため焦って出てきた言葉は「梅田はどの方角ですか?」という更に曖昧な問いかけ。それに返ってきた答えは「ここが梅田です」となんとも素っ気ないものだった。
大阪に詳しい人ならばその答えは正しいと思うかもしれない。でも年に1度来るか来ないかの遠方者にとってはそんな言い方はないだろうと当惑するだけだ。
仕方なくその女性にそれ以上問いかけることは諦め駅の掲示物を探す事にする。数メートル先に地図を見つけ取りあえず阪急鉄道側に進むことが出来た。
ところが問題はそこからだった。歩きに歩き回り道を尋ねた人は10人以上何とか会場前にたどり着いたのは開演10分前を過ぎていた。35分以上かかった計算になる。なんとも無駄な労力を必要としたものだ。寒さを予測して厚着をしていった為もあるが着いた時には汗だくだった。

それでも幕が上がったら楽しかった。こういったイベントものは初めてだったし今年は雪組しか見てなかったから他の組を見れたことも良かった。通路席だったので横を色んなジェンヌが通っていくのも嬉しかった。
宝塚に比べ舞台が狭い上オーケストラが舞台上にいるので階段を使う以外は横切ることしか無い単調な舞台構成で多少もったいなさを感じたことと娘トップが皆かなり下級生な為衣装はトップだが扱いが軽いというか単調(トップの後から出てくるとか3人まとめての扱いが多かった)なのが残念だった気がする。

心情的にはもう宝塚歌劇への気持ちは冷めている。
だからこういうイベントを見るのもこれが最初で最後だなと思うと何となく感傷的になる。特にゆみこさんをセンターにしたボレロの時に強く感じた。ゆみこさんの隣が大抵テル君だったのも感慨深かった。

2時間の公演を見て再び大阪駅へ。帰りは迷わない、それは前回も同じだ。方角がわかることと駅への案内板はたくさんあるからわかりやすい。
劇場に対してももう少し駅のわかりやすいところに表示すればいいのに・・・と前回来た時と同じ感想を持ちながら大阪駅に帰り着いた。
6時間以上電車に乗るわけだからおにぎりでも買うか、と構内の店に入り物色する。
するとおにぎりにあまり見かけないことが書いてあるのに気がついた。『味付け海苔使用』の文字だ。
ちょっと前に某テレビ番組で大阪ではおにぎりに味付け海苔を使う事が多いと見た記憶がありこれがそうか~と一瞬感心したのだが次の瞬間には戸惑ってしまった。私が食べるおにぎりの全てが『味付け海苔使用』の文字があるような気がしたからだ。まさかこれだけしかないって事はないだろうと店員さんに「味付け海苔じゃないおにぎりはどこですか?」と尋ねると男性店員は変なものを見たような目つきをした。次いで「そんなものは置いていません」とぶっきらぼうに答える。これには流石に驚いた。
町中のコンビニならそれは仕方ないと思ったが、そこはターミナル駅の構内だ。ここを利用する客は大阪以外の人も多いはずだ。だったらそれ以外の地域の人向けのおにぎりがあってもおかしくないだろうと思ったのだが実際はそうではないのだ。
所変われば変わる常識はあると言うことで通常の海苔のおにぎりを買うのは諦めたが結局味付けのも買わなかった。お手ふきを持っていないのでべたべたする味付け海苔のおにぎりは困るだろうと考えたからだ。

宝塚歌劇に対する気持ちが冷めていることも手伝って帰りの電車で窓の外を見ながらぼんやり感じていたのは関西の雰囲気というか風土は私になじまないなぁというものだった。
一応3月の大劇場公演は押さえてはいるが今後もうそれほどこちらの地域には来ることはないだろうと予感めいた思いが帰路につく私を包んでいた。
私が宝塚歌劇団という存在を知ったのは中学生の頃だ。
NHKで放映されていた公演をたまたま見たのが初めだった。もちろんその時はそこに映っている人が全て女性だとは知らなかった。そういう専門的な知識はもっとずっと後になってから知っていく。

初めて生で舞台を見たのは2001年のことだ。たまたまベルサイユのばらが公演され原作ファンだったので見に行った。・・・・・・なんというか原作ファンには許し難い全くベルサイユのばらとは関係ない内容だった。
それでも何となく宝塚というものが好きな人がいることは理解できた。それでその後舞台を見にいくようになった。

ただ・・・・・・舞台ものを見ることが好きな程度の人間には宝塚は理解できない部分が多くある世界だ。それをそう言うものだと思えれば良いのだろうがそこまで「宝塚歌劇」にブランド感を抱けない人間には理不尽だと感じてしまうことがよくある。
そんなわけで3年ほど過去にも全く公演を見ない時期がある。チケットが取れないせいもあったが無理しても行きたいと思えなくなっていたことが大きかった。

たまたま水夏希さんがトップになると言うことを知り、この方が見ていた宝塚舞台の中では一番好きだったのでせっかくだから見ようと思いここ数年また通うようになった。
ただ以前のようにオークションなどまで駆使しても見ると言うことはしない。あくまで友の会で取れたら行く程度だ。宝塚のディープな世界につからない程度に見てきた。

その間にも色々なことがあった。不思議なことに宝塚でのニュースの場合あまり良い印象の話題は少ない。何故なのか理解できないと思うことが多い。
宝塚歌劇はその構成自体が金持ちの道楽のような部分があるらしいので一般庶民の常識でははかれないものなのかもしれない。ある程度はそれで傍観できるが許容を超えたらただ不快になるだけだ。様々に聞こえ来る理解できない発表にまた宝塚から引き時なのかな・・・と思い始めていた。

そして裁判沙汰に96期のブログの不祥事だ。これは正直一般常識として許し難いあるいは納得できない内容である。
裁判は一方的に音楽学校を退学させられた女性が起こしたものだ。万引きをしたと言うことでの退学ということらしい。万引きで退学が妥当かは今は問わない。
問題は万引きしたとされた女性がその行為を否認し被害にあったとされた店に確認を取って欲しいと訴えたことに対し確認をすることなく処分を下した、という点だ。これは学校法人として妥当な行為なのだろうか?音楽学校は各種教育なので通常の高校・大学などとは認識が多少違うかもしれない。しかしまだ10代の少女を預かる教育機関として一方的な主張を貫くことは正しい教育行為とは言えないはずだ。
そもそも万引きはその行為が行われた時に糾弾される罪だ。店側が被害を訴えたわけでもない警察も介入していない当然事件にもなっていない事象に学校側が退学を宣言できるのだろうか?
しかもその処分を不当とし女性側が裁判所から処分取り消しの仮処分を受けたのに学校側は2度もそれを無視している。
こんな学校に私なら子供を預けたいとは思えない。ありもしない犯罪の烙印を押され退学を言う懲罰を受ける可能性を否定できない。
学校側からの退学は自主退学と違い履歴書に記載する義務がある。女性はこのままであれば一生この罪状を背負うことになる。これが事実であれば仕方ないがもし無実であれば問題などというものではない。それ故今裁判が行われているわけだ。

96期生のブログは個人のものなのであえてここでは触れない。ただ宝塚歌劇団が掲げる「清く正しく美しく」という理念とは相容れない内容であった、というだけだ。
退学させられた女性に対する処分には音楽学校はこの「清く正しく美しく」に則って行ったと発表している。(この発表文は処分された女性に名誉毀損と言われても否定できない書き方をされている。この文章の書き方からしてもとても学校法人を名乗るのにふさわしいとは思えない)
「清く正しく美しく」という理念は抽象的である。それ故どの行為が駄目でどの程度は許されるというのはあくまで劇団・音楽学校の決める範疇かもしれない。
ブログ内容は処分対象でないのかもしれない。しかし一観劇人として言わせて貰えればあれをネット上に掲載を見逃した音楽学校や劇団はお客に対して落ち度であったと謝罪すべきであると思う。それくらい「清く正しく美しく」の理念を否定する内容であった。
しかし残念ながらそう言う行為は今なお行われない。たぶんこの先もないだろうと思う。そういう世界だと経験上私は予測できる時間を過ごしてきた。劇団に都合の悪そうなことは決して公式にはしないそう言う部分が私をディープな塚ファンにしないで来たからだ。

もう潮時だな・・・と思ってきた。友の会の期限が夏頃まであるので次は更新しないだろうと。
そして15日、劇団から新たな発表があった。雪組2番手のゆみこさんの退団発表だ。
水さんがトップになってからずっと2番手として支えてきたゆみこさん。水さんの後はきっとこの人がトップだろうと信じていた。華はないが歌も上手くダンスも出来る、芝居も安定している実力派だ。きっと堅実に組を導いていけると疑わなかった。
しかしそれでも退団である。宝塚歌劇で2番手での退団は殆ど無い。ゆみこさんの前は20年ほど遡らなければならないと言うほど起こらない事象なのだ。その位2番手はトップに近い立場なのだ。2番手にしたからにはトップに、そうでなければ2番手にはしないそれが宝塚だった。
3番手のキムちゃんに強力スポンサーが付いていることが大きいのだろう、それはわかる。しかしそうであるならもっとやり方があったはずだ。少なくとも組替えなどでポジションをずらすことは今まで劇団でよくやってきた。

宝塚を見ていて時々「劇団の愛」という言葉を耳にする。この「愛」がある生徒は優遇される。そしてその「愛」はあまり奇麗な印象がない。

「学校」の先にある「劇団」、それが宝塚歌劇団である。しかし音楽学校は決して生徒全てに温かくない存在であることが裁判沙汰で明るみになった。そしてその先にある歌劇団は・・・生徒と呼ぶ劇団員を切り捨てるような使い方をしてきた過去が確かにある。「愛」のある生徒と無い生徒・・・「清く正しく美しく」を実践しているとは思えない行為である。

伝統はただ時間の流れで作れるものではない。それを支え認めてくれる存在があればこそだ。建前でも理念を支えていければいいが自らそれに反していけば皆の信頼も薄れていく。その先にあるのは崩壊でしかない。
特に今は不景気だ。不景気で真っ先に切られるのは娯楽費である。劇団が伝統に胡座をかいているならそれはもう価値はない。今は数十年前の娯楽が限られた世の中じゃない。代わりはいくらでもある。

舞台の裏側を感じさせないことが宝塚歌劇の魅力だと思ってきた。だから今はただ残念だという気持でいっぱいである。
先週のことだがボーナスが出た。
もちろん公務員のように◎.△ヶ月分なんて金額ではないが、それでも貰えれば嬉しいものだ。更にボーナスに限れば前の会社より多く貰える。(前はボーナスがなかった時もあったし・・・)

本当はボーナスが出たら自室のテレビを買うつもりだった。そのため秋頃から録画が出来るタイプの液晶テレビを色々物色していた。
しかし結局今回買わないことにした。理由は主に3つ。
一つはエコポイントが延長されると言うことなので急いで買わなくても良くなってしまったこと。
二つ目はちょうど円高になっていたので外貨を買っておいた方が良さそうだったため。
三つ目は先月から通い出したところの料金がテレビ以上の金額でそれの支払いに回してしまったため、である。

そんなわけで予定が狂ってしまったわけだが、14型のブラウン管でもまだ映る。ビデオで録画すると問題が出るがただ見る分には使えるし、自室のテレビなど朝の時計代わりくらいにしか使用していない。
当面3月の決算期まで先伸ばしただけであるが、買わないと決めたら買う気そのものが失せてしまった感じがする。意外に3月になってもまだ良いなぁで延び延びになってしまいそうな気がする。
まぁ買い物も一種の縁のようなものだからタイミングというものがあるのだろうと自分の事ながら人ごとのように感じている自分を少し面白く思っている。
残業はよほどのことがない限りすべきではないと思っていた。必要のない残業をすることは会社にとって余計な経費を必要とすることになるから。
だから出来るだけ時間内に仕事が終わるように考えて仕事をしてきている。仕事量が日によって変わることも考慮して忙しい日で先に出来ることがあれば暇な日にあらかじめやっておくようにしたりして・・・
だから逆に忙しい日で出来ればもう少しやりたいと思っていてもどうしてもその日にやらなければいけないものでなければ残って仕事をやらないようにしていた。その為に翌日死にそうに忙しくなった事も何度もあったがそれはそれで仕方ないと思っていた。

そんなわけで私の残業は1年を通してほぼ月初めと月末に限られている。余計な経費を掛けないことが事務員として正しいことだと思っていたからだ。

もっともそう思っていたのは私くらいで同じ会社にいる事務員の中で一番早く帰るのは大抵私だ。
中には工場の行程の都合や店舗の入金関係でどうしても定時に帰れない人もいる。だが単純に仕事が遅いまたは仕事のこなし方が悪いことでだらだらと遅くなっているように思える人もいる。まぁそれに対して意見するのは会社だから私は特にそのことに関心を持っていなかった。

しかし今日思いも掛けないことを上司に言われた。
「定時に帰れるなら他の人の仕事を手伝ってやって」と。

一瞬、言葉の意味が受け止められなかった。が、その次の瞬間色んな考えが巡った。
「私は残業しないよう時間内でやりくりをしているだけで別にやる仕事がない訳じゃないですが・・・」
「でも殆ど定時で帰るよね。みんな残ってるのに毎日先に帰るってどうかな。今忙しい時期で他の工場の事務もこっちでやっているから遅くなっているんだよ」

それは私もわかっている。なぜなら私もその影響を受けているから。昨日など他の工場から回ってきた仕事だけで私の仕事は殆ど出来なかった位だ。それでもその日にやらなければいけないことだけはやって残りは翌日にやろうと時間を計算しながらこなしているのだ。それをまるで楽をしているように言われるのは心外だ。

仕事が遅い人が遅くまで残業してこなすことを頑張っていると私は言いたくない。その人なりに頑張っているかもしれないが、その分の残業代は会社の負担になる。
仮にサービス残業にすると言うことになってももし監査が入った場合に問題になるかもしれないし、何かの折りにあんなに仕事をしてもお給料が少ないなどと言う会社に対する不満に発展することもある。どうしても残業しなければならない日がある以上、(クレームなどの突発事項があった場合はともかく)残業は絶対しないと決める日も必要だ。

だからこそ多少無理をしても残業しないよう仕事をしてきたつもりだったが、そんな風に上司の目には映っていたのかと思い知るとひどく脱力感を感じてしまう。
頑張っても認められないことがよくあることは十分理解しているが、改めてその現実を目の当たりにすると生きていくことは本当にむなしいことの連続だなと思い知る。

いっそのことだらだらと遅くまで仕事しててやろうかとも思ったが、気分の悪いままいつまでも会社にいたくないので結局今日も先に帰ってしまった。忙しいから手伝ってと言われるならともかくそれもなく勝手に他の人の仕事に手は出せないのに無理して残業しなくてはならないのだろうか?

経理が遅くなる日はみんな先に帰るのを何も言わないのになぁ・・・などと心の中でぼやく自分がなんだかとても嫌に思えてしまった。

眼鏡生活2日目

2009年12月8日 雑記
相変わらず怖い、生活するのに。世の中の眼鏡女性はどうやってお化粧しているんでしょう?本当に疑問に思う。
何より怖いのが階段を下りる時。遠近感がよくわからない上に階段が端と真ん中で歪んで見える。見える感覚で足をおろすと床に付かなくて何度もこけそうになる。
以前に使用していた時こんな時どうしたんだろう?と昔の自分に問いかけたりして。

眼鏡をかけ始めたのはたぶん中学に入った頃だ。右目は小4から悪かったが左目が視力が良すぎてなかなか眼鏡に出来無かったのだがようやく1.0を切ったので使用し始めたのだ。
それから高校卒業まで眼鏡で生活をしていた。

しばらくその頃のことを思い返したのだが、階段が怖かったとか全く記憶になかった。しかしそれも当然である。眼鏡は授業中しか使ってなかったのだから。
視力自体は眼鏡をかけ始めると転がり落ちるように悪くなっていった。たぶん高校3年の頃は0.1近くになっていたはずだ。
その視力でも普通の生活の中では眼鏡をしていなかった。ぼんやりした風景が意外に好ましかったのもあるが、眼鏡が非常に掛け辛かったからだ。
当時の眼鏡はガラス製で今のものよりずっと重量があった。しかも左右の度が違うためガラスの厚みが倍くらい違った。その為自然に重い右側に傾く。また左右の視力が違いすぎるため目に合った度に眼鏡自体設定する事が出来なかった。だから眼鏡通しで見る光景がくっきり奇麗というわけでもなかった。あくまで眼鏡は黒板の字を読み取るための道具に過ぎなかったわけだ。

そんなわけで昔の経験は役に立たないことがよくわかった。眼鏡をして階段の上り下りすること自体殆ど経験していないのだから。化粧も当然未経験だ。思い返しても意味がない。
では昔と同じようによく見えない世界で生活すれば良いではないか。しかしそれは最早不可能である。
見えない世界で生活していた時はそれが普通の日常だった。しかし今はすでにコンタクトで見える生活に慣れてしまっている。今更色しか判別できない世界では生きることは出来ない。
なにより会社に行くためには車を運転しなければならない。視力0.01以下でそれは不可能だ。

取りあえず今日は充血用の目薬を買ってみた。そう言う製品なのか私の目が悪いせいか非常にしみる。すぐに乾いてしまうあたりがドライアイだなと実感する。でも早く良くなってくれればこの煩わしさから逃れられる・・・ということでまめにさすようにしている。
出来れば医者に(コンタクト自体がもう古いため)行きたいのだが行けば5万近くお金が必要になるし、何より今は休みがない。年越しまではこのまま上手くやっていかなければ、となるべく目に負担を掛けないよう気をつけている。

1☆年ぶりに1日眼鏡で過ごした。
高校卒業後コンタクトにし、眼鏡は滅多に使わなくなっていた。コンタクトの方が色んな意味で楽だからだ。

しかし先週辺りから右目に痛みを感じるようになった。
ドライアイであることは知っていたし、コンタクトが合わなくて痛むことはよくあることだったので気にしないでいたのだが、日曜日出かけた先で鏡を見た時右目が真っ赤で驚いた。長時間コンタクトをしていてなる充血とは違う印象を受け帰宅後すぐに外した。
今日になってもまだ赤かったのでこの赤みがひくまでは止めようと眼鏡で過ごすことにしたのだ。

しかし・・・生活する上で眼鏡はかなり不便だ。外すと何も見えない。
コンタクトも同じであるのだが、コンタクトは朝起きてすぐつけて夜寝る直前に外す。起きていて裸眼でいる時間は10分にもならない。だから見えなくて困ると思うことは殆ど無い。

だが眼鏡はそうはいかない。眼鏡があることにまずストレスを感じる。長時間掛けていると耳も痛くなってくる。
更に私は右目と左目に視力の差があり、また右目だけ乱視があるためどうしても眼鏡の度を合わせることが出来ない。近くを見ていて離れたところに視線を動かすと見えるはずの世界もはっきりしないことがよくある。

一番困ったのは朝化粧をする時だ。眼鏡をしながらは当然出来ない作業だ。今時の女性のようにこった化粧はしない、せいぜいファンデーションと口紅くらいだが、それでも何にも見えないとどうしたらいいのか途方に暮れてしまう。

そうして何とか1日過ごしたのだが、帰って化粧を落としたらくっきりと鼻に眼鏡の痕がついていた。どうしても上手く眼鏡が1カ所にとどまってくれないためくっきりと赤い痣のようになっている。気がついていなかっただけに結構恥ずかしい。
そうなると明日はコンタクトに変えたいのだが、鏡の中の右目はまだ赤い。
もうしばらく止めた方が良いのか生活を潤滑にする方を選んだ方が良いのかどちらも選びにくい選択肢に頭を抱えている。

時間はあるのに

2009年12月3日 雑記
最近読書量が減っている。読むために買っている本がどんどんたまり積み上がっていることからも確かだ。本を買う量はここ3ヶ月と変わってないから実際読んでいないわけだ。

どうして本を読む量が減ったのかというと日が昇るのが遅くなったからだ。毎朝食事終了後から会社に行く支度をするまで30分~40分程度読書していたのだが、最近その時間がまだ暗く文字を見ることが出来ないのだ。
別に電気をつければ問題なく読むことが出来るのだが、何となく電気をつける気にならない。蛍光灯の強い光が朝の目にはきついのと会社に行くまでの時間の緩やかさが無くなってしまうような感じがするからだ。
結局今はベッドの上でごろごろするだけの時間になってしまっている。(元々この時間の読書はベッドに横になったり寄りかかったりしながらしていた)

時間がもったいないのと読まない本が増えていくのは結構プレッシャーである。ポイントの消化にどのみち毎月本は買うことになっている。定期的に読んでいくことは求められる。夜もある程度読んではいるが増えていくペースには追いついていかない。
今のままでは朝がもう少し明るくなるまで時間が確保できないことになる。それではあと数ヶ月貯まってしまう。
部屋全体の電灯はつけたくないが、ベッドのパイプに手元だけ明るくする電気をつけようかなど考えてみた。しかしそれも数ヶ月だけではもったいない気がする。

読みたい気持はあるが読まなければと思うようになると辛いものがある。読みたいからこそ買うのであって部屋の邪魔にするわけではない。
何とか上手く折り合いをつけたいのだが朝から悩むのも嫌なので何となくだらだらと過ごしてしまっているのが現状である。

そして最後の月

2009年12月1日 雑記
今年もいよいよ最後の月になってしまった。

年齢が高くなってくると、年々時間が過ぎるのが早く感じるようになると語る人が増えてくる気がする。
自分ではそう思ってなかったが、最近そう言われる意味が理解できてきた気がする。

社会人になって会社に通うようになると毎日の生活が学生時代より日々代わり映えしなくなる。イベントごとも少ないし、顔を合わせる人間がどうしても限られてくる。仕事上の出会いがプライベートに及ぶことは同級生などとは違ってあまりないから表面的なつきあいは増えても生活に刺激を与えるようなことにはならない場合が多い。
そんなわけで社会人になってからの記憶をたどると意外に思い出すことが少ないのだ。特に楽しいとか忘れられないというものは殆ど無いのが現状だ。どちらかと言えばある程度の期間をまとめて一括りにするような感じがする。

そうなれば学生時代の1年1年の思い出よりぐっと量は少なくなる。それ故に思い返せば時間を無駄に過ごしたような印象を抱くのかもしれない。

誰にも平等であるはずの1年という時間、自分にあとどのくらいあるのかわからないが、数年経って今年を思い出す時どんな風に思い出すのだろう。もしかしたら思い出すこともなくまとめられた一部になってしまうのかもしれない。
たとえそうであったとしても今を生きている以上、今このときは無駄にしないようにするべきである。
今年残り一月、師走だけ合って色々忙しい時間である。ばたばたしても健康にだけは留意して過ごしたいものだ。
宝塚に武道館コンサートと出かける予定を取りあえず楽しみに頑張りたい。

猫の道

2009年11月28日 雑記
8月より運動不足解消とダイエットをかねて毎日運動をすることにしているが、休日はやらなくても良いことにしている。自分の性格として毎日必ずやらなくてはいけない状態にすると長続きしないからだ。休日は休みなのだから無理しなくても良い程度にしておけば平日は取りあえず頑張ろうと何となく続ける事が出来るのだ。

そんなわけで休日はウォーキングに親と行くくらいでまとまって運動はしないことが多い。せいぜい軽いストレッチ程度だ。
今日は土曜日だが一時工場が暇になったため久しぶりに休みになった。年内おそらく最後の土曜休みなので今日は何もせずに過ごそうと思った。命の洗濯だ。

ところが夕方になって父と母の会話が耳に入ってきた。
「今日は猫の道に行く?それとも亀の道?」
私の両親は一日一万歩歩くことにしている。万歩計を身につけて生活しているのだが特に朝と夕方に3~5kmほどあるいているのだ。毎日のことなので同じコースでは行く楽しみが無くなる。その為色んなコースを自分たちで作っているのだ。その幾つかあるコースのどの道を行くのか相談していたのだ。

「猫の道!」
答えたのは私だった。猫の道と言うことはきっと猫が沢山いるのだろう。猫に飢えている私は猫を見たくて仕方なかった。

そんなわけで予定外に外を歩くことになった。もっとももう夕方で日も傾き始めている。必ず猫がいるとは限らないという両親の注釈を受けてだが私も一緒に行くことにした。
隣町の駅向こうまでぐるっと回るそのコース運が良ければ10匹近く猫を見ることが出来るそうだ。期待半分で1時間強の道のりを進んだ。

結果から言えば猫を5匹見ることが出来そのうち1匹は触ることも出来た。中でも両親ですら3ヶ月に1度くらいしか見れないお嬢様猫を見ることが出来たのでラッキーだと言われた。
猫好きは猫に触れなくても見るだけで幸せになれる。とても幸せな時間だった。

すでに今の家で飼うことは諦めているが、こういうちょっとした出会いは人生を生きる上での楽しみである。たまには両親の自宅周りにつきあうのも良いかなとちょっと思った時間だった。

変わっていた現実

2009年11月26日 雑記
毎年12月24日にムーンライトながらに乗っている。初めて乗ったのは1993年だからもう16年前からになる。大学時代には方向が違うことがあって乗らない年もあったが、卒業後は毎年必ず乗ることになる。何故ならばそれ以外に静岡に帰る手段がなかったからだ。25日は通常仕事があるのでそれに行くためにはどうしても帰らなければいけなかったからだ。

ながらに乗るほど遅くまで東京で何をしているかと言えば毎年恒例のALFEE武道館公演を見に行っている。
春と秋と毎年ツアーをやっているALFEEであるが、12月23日24日は武道館と決まっている。そしてクリスマスイブである24日はそれまでのツアーとは異なっているのだ。異なるというか正確に言えばツアーメニューに追加されるといった方が良いかもしれない。寸劇が入ったりここだけでしか歌わない曲をやったり・・・とにかくこの日ここでしか見れないものが見ることが出来る公演なのだ。
それを見るために毎年無理をしても24日に東京にやってくる。前の会社にいた頃はこの日だけは休みを取って、今の会社は休めないので半日早退して何とか参加を続けている。

ただ、唯一困るのがこのスペシャルが入るため24日の公演は他のどこよりも公演時間が長くなると言うことだ。チケット代は同じなのでものすごくお得であるが、10時ぎりぎりくらいまで公演されてしまうともう乗れる新幹線はなくなってしまう。

そうなると帰れる便はムーンライトながらである。今は夜行バスもあるらしいのだが、昔は静岡に止まる高速バスは夜の7時台までしかなかったから問題外であった。
そんなわけでこの夜東海道線を走る快速電車に毎年お世話になってきた。

長年乗り続けているうちにながらという電車も随分変わった。
乗り始めた頃は全席自由席でピークの時期は通路に新聞紙をひいてごろ寝され足を置くことさえ出来なくなってしまったこともあった。
そのうちに小田原までが指定席区間になったり、臨時便が出るようになったり、ついには全区間指定席になってしまったりした。
その為にこのムーンライトながらの乗車券を取ることがとても難しくなってしまった。特に青春18切符の使用可能期間はプレミアに近い。昨年など10時前からカウンターに並んだのに10時から予約の方のチケット取りをされ私の番が回ってきた5分時点ではもう無くなっていたくらいだ。(臨時の方が取れたから良かったけど・・・)

そして今年である。昨年の失敗を元に人が並ぶ大きな駅ではなく半無人駅という小さい駅で乗車券を取ることにし10時10分前に駅に着いた。
そして10時に発売されるながらのチケットを申し込むと、駅員さんから意外な返答が返ってきた。
「ながら?動いている時期かな?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「ながらって1年中ありますよね?」
「今は期間運行だよ。18切符の使える時だけ」
その返答に内心えーっと声を上げた。全く知らなかった事実だったからだ。
だがとりあえず今回必要なのはその18切符の運用時期だ。何しろ私自身がそれを使用するつもりだから。そのまま上手く駅員さんに頼んで無事に乗車券をゲットすることが出来た。

満足感を得て帰宅したのだが、ふと気になってPCで検索した。そしてその結果に愕然とした。初めて知る事実にショックを受けたのだ。
確かに駅員さんが言った通りムーンライトながらは今年の3月から期間運行になっていた。ほぼ青春18切符の使用期間である。それは確認だけだったのでもう驚かなかったが問題はその中身、である。
なんと今のムーンライトながらは停車駅が半減していたのだ!
静岡県内だけでも熱海・三島・富士が減っている。愛知も岐阜も少なくなっている。
今までは降りる駅を富士と静岡で選択できたがもうそれも出来なくなってしまった。

時代が変われば変革することもあるだろう。でも何となく変わるたびに便利でなくなって行くような感じがするのは気のせいだろうか。確かにすし詰めの電車は怖かったが、今となってはあの乱雑さも懐かしく思えてくる。

実際の問題として富士と静岡では自宅には富士の方が近い。帰宅するにはその方が使いやすかった。静岡で降りて車で戻るには夜間はちょっとしんどい気がする。
最近の傾向では24日の公演も多少短めになってきた。ちょっと無理をすれば最終の新幹線に間に合うかも、と昨年思ったものだ。今年がもし同じような状況なら・・・もしかしたら新幹線で帰ることを選択するかもしれない。
そうなるともうムーンライトながらで帰るクリスマスは無くなってしまうのかもしれない。毎年恒例行事が無くなってしまう可能性に少し寂しさを感じている。
8月の後半から筋力アップと体調管理、ついでに体重を減らすために努力してきた。

そして約3ヶ月、一番達成しているのは体重の減少かもしれない。5kg以上最盛期より減らしたことになっている。それにつれて体脂肪値減少した。しかし一方で不思議なことに筋量は増えていない。本当にただ脂肪が落ちただけのような結果である。

そんなわけで体調管理というか体質改善はあまり良くなっていない。相変わらず冷え性はひどい。むくみは一番ひどかった時よりはましになったがまだ相変わらず症状はある。
こちらについてはまだまだ改善が必要であるらしい。

それにしても5kgも落ちたのに周囲の誰からも「痩せたね」と言われないのが悲しかったりする。もっとも太った時も「太ったね」とは言われなかったのであまり体重の増減が体型に出ないタイプなのかもしれない。

体重自体は大学卒業時に近くまで落とせたが、正直体力や筋力不足はまだまだであるとしか言えない。冷え性も筋量が増えることで改善すると聞いたのでもう少し努力し続けることが必要なようだ。
年明けまでに何とか体脂肪率が25%を切ることを新たな目標にもう少し頑張りたい。
昨日ウォーキングで歩いたのは約15kmだった。
280段の階段がきつかったのか残り3kmを30分以内で歩くということをしたせいか(帰りの電車の都合で)筋肉痛になった。

ここの所運動はほぼ毎日してきたが、こうして筋肉痛なるのは久しぶりだ。なんだか新鮮な感じがして嬉しくなってしまった。筋量が少ないと言われているのに運動してもちっとも増えないので多少意外に思っていたのだ。

結局毎日している運動では不足していることが理解できたのでこれはこれで良かったと思った。

上り下り

2009年11月22日 雑記
二月ぶりにさわやかウォーキングに参加した。行き先は身延山。身延線に乗るのは大学卒業以来なので10年以上ぶりとなった。
今日は身延駅から身延山の折り返しコース。運送便の少なさを考えてか11kmとちょっと短めだ。

父がこのコースに行くと言った時は少し驚いた。というのは父は階段とか登り坂に滅法弱いからだ。山道コースはまず行きたがらない。
だが今回はそれほど急な坂はないと言うことと何度も久遠寺の前を通った経験はあるのに一度も中を見たことがなかったという事もあって参加することとなった。
とはいえ天気予報は2日前まで雨で一度は中止も考えていた。しかし昨日には雨は夕方という予報に変わったため朝7時前に家を出た。

思ったより良い季候だった。少し肌寒いが風も穏やかで歩き出すと日も射して暖かくなった。参拝道は聞いていたとおり坂と言ってもそれほど急ではなく順調に久遠寺の三門を潜った。
その先にあるのが280段の大階段だ。下から見上げてもかなりの急勾配である。父がここは避けるかと思ったのだが意外に登ると言い出したので皆で登ることになった。
しかしこれが思った以上にきつい作業だった。1段1段がかなり高い上に平坦ではない。そして急勾配だ。登るうちに心臓がばくばく足は乳酸が貯まって重くなる。所々の階段の切れ目に手すりに寄りかかってゼイゼイと息を切らすこととなった。
傍らでは高校生の男の子達が部活動の一環で勢いよく駆け上り駆け下りてゆく。すでに高校卒業から2倍の年月が経とうとする人間とは大違いの体力であるとしみじみと実感した。

それでも何とか登り切り久遠寺とその先のロープーウェイ・奥の院まで見て回った。高さが上がるたびに冷え込み山に冬が来ていることを感じさせる。紅葉もとても奇麗だった。

そして帰りである。母は階段を下りると言ったが私にはどうしてもそれが出来なかった。私は高いビルなどから下を見るのは好きだが急な階段を上から見下ろすのは駄目だ。気分が悪くなる。同時に急な階段で立ち止まるのも出来ない。一度新年参りで階段の最上段辺りで留め置かれた時立ちくらみを起こした事がある。勢いよく急な階段を上ることは出来るが降りることは出来ない。
そのため私は回り道で降りることにした。所々木の棒で段が作ってあるだけの舗装されていない道だ。緩やかであるが石が多く滑りやすそうだった。その為もあって同じ道を選んだ父よりもずっと遅いスピードで降りることになった。どうしてもいつものようにするすると歩くことが出来ない。

降りながら何故これほどに手こずるだろう、と考えていた。下に目がくらむわけでない緩やかな坂道にすぎないのに。登ることには抵抗ないのに下るとなったら尻込みしているようで情けない感じがしたのだ。

だが降りながらふと思いついた。
私は下りることではなく転がり落ちる事が嫌なのだと。落ちて地面に叩きつけられたら一瞬で死ねるだろうが転がり落ちる事はそうはいかない。結果的に死ねればまだ良いだろうがそうでなければ苦しみは長く続くことになる。終わる見込みのない苦しみというのは生きていると言うことだけで十分だ。

そして同時に感じた。もしかしたら私もまた人生の下り坂に入ったのではないかと。最近になって色々新しいことをやり出した。勉強したり体調や体力向上を目指したり今までやったことのないことをやり出したり・・・取り立ててそのことに意味があるとは思ってこなかったが、今日坂道をゆるゆると下りながらふと考えた。これは無意識にそのことを感じたため恐怖を抱きそれを食い止めようとした防御行為ではないかと。

子供の頃に生物としての人間の寿命は30年程度だという内容の本を読んだことがある。もちろん医療行為や食べ物などの社会発展で80年もの寿命を今は持っている。しかしそれは野生の生物の寿命と同様に語ることは出来ないものであろう。
人間の寿命が30年ほどだと言われればそうかもしれないと思うことは多々ある。体型が変わり病気も持つことも多くなる。白髪など肉体の衰えが顕著になる。通常の野生動物であればそうなれば長く生き続けることはまず出来ないはずだ。
アラフォーの私はすでに人生の中で生物の寿命という上り坂を登り切った頃である。下り始めたことを知らずに実感しそれを転がり落ちるようにならないよう自己防衛に走っても不思議ではない。

人生の下り坂に入ったと言ってもそれほど悲観することはない。今は生きようと思えばいくらでも生きられる時代だ。そして生きている以上生き続けることは社会に生きる人として最低の行為である。
私が嫌う転落の苦悩をなるべく軽くするためにこれからも努力しなければ行けないだろうとゆるゆると坂道を下りながら考えていた。

ささやかな楽しみ

2009年11月21日 雑記
地道に貯蓄に励むアラフォーではあるが、一攫千金というかもしそれなりの大金を得たら・・・という漠然とした願いはある。
その昔は宝くじ、といっても買うのはジャンボだけだったが夏と冬に30枚ずつ買っていた。たぶん10年以上買ったと思うが、3,000円が1度当たっただけだった。

最近はそれがBIGになった。理由はこちらの方が大金だから、ではない。店に行かなくても購入できるから、だ。イーバンクに口座があれば買うのも当選確認するのも家にいながら楽に出来る。
宝くじの場合は300円をなかなか換金できなくて結局忘れてしまったことが何度かあるから、仮に当たったら勝手に振り込まれるこちらの方が楽だと思ったのだ。

といっても流石に確率は宝くじ以上のBIG。当たるわけがない。宝くじのように10枚買えば1割戻ってくるなどというシステムはない(1%のポイントは付くけど)し、当たりも4等までしかないからなおさらである。
しかも購入するのは1週間に2枚と決めている。1枚300円だから600円。月にして3,000円弱、つまり宝くじを購入していた頃と予算的には同じにしているのだ。だからなおさら当たらないわけだ。

それでも購入している以上は当たりを期待しているわけで・・・それなりに毎週結果のチェックはしている。といっても全部のカードを覚えてはいないから気にするのは静岡県のチームの結果だけだ。エスパルスとジュビロであるが、たった2チームながらこれすらなかなか合わなかったりする。

ちなみに今週もBIG対象の試合があるが、明日の試合を前にすでに気分は落ちている。エスパルスが負けたからだ。
一時はトップにもなったエスパルスだがその後調子を落としずるずると負け続けている。何故か私の買うくじはエスパルスが勝つものが多いのでここ最近は全く期待できない状況になっている。

当たるわけ無いとはわかっているが、もし当たったら・・・と色々想像してしまうことまではなかなか止められない。そう言う妄想がある限り今後もBIGを買い続けることになるのだろう。
今シーズンは残り後2節、当たったら・・・と期待に胸躍らせるのもあと2回。一度くらい当選に擦らないかと淡い期待を抱いてたぶん来週もまた購入するのだろう。


11月末が車検切れの私の車。そのためいつものモータースに車検のお願いをした。

「車検お願いしたいんですけど・・・」
「いつ切れますか?」
「11月28日です」
「まだ時間がありますね。代車いりますよね?予定が決まったら連絡しますよ」

このやりとりをしたのが10月の中頃だった。一月前くらいから出来るようなので早めに連絡したのだ。

ところが・・・それから一月経っても連絡が来なかった。
忘れちゃったのかなぁと心配になって再び電話をしたのが先週の金曜日だった。
すると・・・
「まだ時間ありますから、もう少し待って下さい」
と何も問題ありません、と言った風情で明るく返された。

時間があると言えばそうなんだけど、こちらとしてもぎりぎりになると困るかもしれないし・・・と何となく納得できないでいた。
それから土曜日が過ぎ月曜日が過ぎ火曜日が過ぎても何の連絡もなかった。
来週以降なのかな・・・と思い始めていたのだが今日銀行に行く前に携帯を見たら着信が入っていた。

予定が決まったんだと日を聞こうと電話を掛けると帰ってきたのは思いも掛けない言葉だった。
「今なら代車ありますけどいつ来れますか?」

一瞬、頭が真っ白になった。予定を連絡を待っていたのは私だったはずなのに、早くやって欲しいと思っていたのは私だったはずなのに、なんか立場が変わってる・・・?
電話の向こうでは返事を待っている。それもたぶん今日か明日に車を持って来てくれと思っているのだ。しかしながら今日明日など思っていなかった私は車の中を片付けていない。CDなど積みっぱなしだ。

それでもここで行けないと言ってまた先になるのも困る。出来るなら早いところ終わってしまいたい。
結局仕事帰りに車を持って行くといって電話を切った。そして仕事が終わった後慌てて荷物だけ取りあえず下ろせるようにしモータースへ向かった。

「金曜日か遅くとも土曜日には出来ますから」
初老と言っていいモータースのおじさんは笑顔でそう言ったが何となく私は疲れを感じてしまっていた。予定外の行動はあまり好まない性質だ。

とはいえ私の時間の進み方と他人のそれは違うのだ。取りあえずここの所の懸案が一つ片付きそうなのでまぁいいとしよう。
私が読む少女漫画家の一人に成田美名子氏がいる。この人を初めて知ったのはたぶん「CIPHER」の連載が始まってしばらくの頃だった。「CIPHER」という作品は結構長く続いているうちに話がよくわからなくなってしまい(コミックを買っていなかったため)結局挫折した。
その後「ALEXANDRITE」で再び読み始めたぶんその頃「エイリアン通り」を知った。この「エイリアン・・・」が今のところ私の中で作者のベスト作品になっている。
「ALEXANDRITE」が終わった頃私の学生生活が終わり・・・その後あまりこの作者の作品を目にすることが無くなった。たぶんあまり色んな雑誌に目を通す時間が無くなったのだと思う。

数年前たまたま現在連載している「花よりも花の如く」という作品に出会った。ちょうど2巻が発売されたところを店頭で見かけたのだ。今こういう作品をやっているんだ、と特に内容も知らないまま手に取った。
この作品は不思議な作りをしている。1巻を読んでも何となくこれが作品の始まりだと思えないのだ。なんだか変な感覚だ・・・と1巻2巻を隅々読んでいくとどうもその前段階の話が存在しているらしいことに気がついた。

実はこの「花よりも・・・」と「ALEXANDRITE」の間に「NATURAL」という作品をこの作者は連載していた。この「NATURAL」に登場していたキャラクターが「花よりも・・・」にも登場している。そして「NATURAL」の最終巻にこの「花よりも・・・」の1巻の前の作品(読切)が掲載されていたのだ。
そのため「NATURAL」の文庫本を揃えたのだが、残念ながら文庫版にはその読み切りは載っていなかった。結局その為コミック「NATURAL」の最終巻だけ購入する羽目になってしまった。

「花よりも花の如く」はお能が題材になっている。私は能に詳しくないので、そう言うものなのかと結構興味深く読んでいる。べたべたした恋愛話もなく淡々と話が展開していくので私にはとても読みやすい作品だ。
内容については本当に私にその世界の理解がないので特に言うことはない。ただ最初の頃からこの作品について一つ非常に興味を持ったことがあった。
それは主人公の癖のようなもので、壁に沿って足を上げる動作だ。最近少なくなってしまったのだが以前はリラックスしたり考え事をしたりするところなどでよく見られた。特に意味はないのだが妙に好きなシーンだったりする。

好きであると同時にときどきこれ自分でも出来ないかな、と思うことがある。というよりやってみたいと思ったりした。何となく面白そうだと感じるのだ。
ただ現実としてなかなかそれを実行しようとは思わなかった。一つは寝転がって足を上げられるような場所がない。二つ目はそんな格好しているのを家族に見られたらどう思われるかということ。そして一番はどうせやるならゆっくり時間がある時にやりたいがなかなかそんな気持の余裕がある時がないこと。

そんなわけで今までそれをしたことは無かった。
しかし本日初めてそれを実行してみることにした。
理由は昨日の日記のことも関係している。そう「むくみ」対策だ。
毎日自分なりにマッサージなどをしているが意外と効果があるように思えない。そもそも自分の足がむくんでいることを知らなかったので「むくんでいない足」の状態がよくわからないのだ。だから自分がやっている事が正しいのかどうかが今ひとつわからなかった。
そこでネットなどで色々対策や対応を調べたところ、自分が今までやっていたこと以外(ウォーキング、足を温め血行をよくするなど)で効果的なこととして「足を上に上げる」ということがあった。その文章を読んだ時に思い出したのがあのコミックの絵だったのだ。
あれで良いのかなぁ・・・と思い思い切って今日やってみたのだ。

やってみた結果わかったのが絵と同じようには出来ない、と言うことだ。なんというか床や壁にぺったりと体がつかないのだ。足をつけるとお尻が壁につかないしお尻を壁につけてしまうと腰や膝が浮いてしまう。
主人公は男性なので骨格が違うこともあるだろうし、私の体が硬いせいもある。二次元的なものを三次元でやるのが無理があると言うこともあるだろう。とにかくかなり不格好な姿勢になってしまった。

ただ・・・やってみてわかったのは、この体勢はそれほど苦しいものではないことだ。というか結構気持ちが良い。なるほどこの姿勢で考え事が出来るという作者の発想は理解できると思った。
そしてそもそものむくみ対策であるが、5分ほどあげただけだが血が下がったような感じで心なしか軽くなった感じがする。むくみのない足がどんなものか今ひとつ理解できない私だが、この貯まったものが移動したような感じがもしかしたらそう言うものなのかもしれないと思った。

残念ながら今はもう冷えるので床に長時間寝転ぶのは無理がある。今度は休みの時にもう少し環境を整えてチャレンジしたいと思う。
なんなら「花よりも・・・」を同じ姿勢で読み返しながらやってみたら面白いかも・・・なんて始まったばかりの今週を乗り越える楽しみになりそうな気がした出来事だった。


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