戻りつつあった株価が欧州金融不安でまた一気に下がっている。
3年半ほど前に株をはじめよくありがちなことだがよくわからないまま損をしていった。ついでにライブドアショックに直撃したため投資金額150万が40万代まで落ちてしまった。流石にそこまで落ちてしまうと何もしない方がましだとそれ以来殆ど動かさなくなった。
会社が無くならない限り景気が良くなればそのうち元に戻るかもという漠然とした期待でそうしていると言うよりも、自分のツキのなさを身にしみたので関わりを少なくした方がましと理解したと言うべきである。
放置して約1年半、ようやく景気が戻ってきた感じがし私の株価も元金の半分位まで戻ってきていたのだがここでまた急速に下降線へ。
金融不安は知っていてもどのタイミングで手放すかの判断は仕事をしている身ではなかなか出来ない。
まぁどうせ放置だし・・・と気長に相場を眺めるだけです。
さて株価は欧州の状況を見ていて予想が出来た事態だが、それ以上に驚いた相場がある。ちょっと前の記事で取ってみようと書いた6月に行われるDreams on Ice新横浜のチケットである。
元々その値段一番高い席が2万、次が1万7千と通常のコンサートなどから見ればかなりお高いイベントであるが、一瞬にして完売、ネットも電話も一度もつながらなかった。
でも転売目的の人もいるだろうから~とオークションやら転売サイトを巡ってみたら・・・・・・滅茶苦茶高騰していた!4万でも高いなぁと思っていたら見る間に5万6万の値が付いた転売チケットが並んでしかも取引中になっている。はじめてだからアイスショーのチケット相場という物が全くわからないのだが、本気でそんな額を出して見に行く人がいるのかと目を見開きたくなってしまう。
流石にそんなお値段では参加は出来ないので眺めているだけにしている。
ちなみに私の過去最高の高額チケットは定価1万5千円を3枚連番で21万(+送料+手数料)である。3枚連番で無ければもう少し安く手に入ったのだが、どうしてもそれで欲しかったのでそこまで値がつり上がってしまった。
しかしそのことを友人達には言えず殆どは自腹になってしまった。若気の至りと言うけど勢いがあった頃だから出来たことですw
アイスショーも出来れば行きたかったけど、今では流石にそこまでできない。読めない相場にむやみに手を出すのは危険なこと。手が出せる所までじっと我慢するかすっぱりと諦めるか、悩みどころです。
3年半ほど前に株をはじめよくありがちなことだがよくわからないまま損をしていった。ついでにライブドアショックに直撃したため投資金額150万が40万代まで落ちてしまった。流石にそこまで落ちてしまうと何もしない方がましだとそれ以来殆ど動かさなくなった。
会社が無くならない限り景気が良くなればそのうち元に戻るかもという漠然とした期待でそうしていると言うよりも、自分のツキのなさを身にしみたので関わりを少なくした方がましと理解したと言うべきである。
放置して約1年半、ようやく景気が戻ってきた感じがし私の株価も元金の半分位まで戻ってきていたのだがここでまた急速に下降線へ。
金融不安は知っていてもどのタイミングで手放すかの判断は仕事をしている身ではなかなか出来ない。
まぁどうせ放置だし・・・と気長に相場を眺めるだけです。
さて株価は欧州の状況を見ていて予想が出来た事態だが、それ以上に驚いた相場がある。ちょっと前の記事で取ってみようと書いた6月に行われるDreams on Ice新横浜のチケットである。
元々その値段一番高い席が2万、次が1万7千と通常のコンサートなどから見ればかなりお高いイベントであるが、一瞬にして完売、ネットも電話も一度もつながらなかった。
でも転売目的の人もいるだろうから~とオークションやら転売サイトを巡ってみたら・・・・・・滅茶苦茶高騰していた!4万でも高いなぁと思っていたら見る間に5万6万の値が付いた転売チケットが並んでしかも取引中になっている。はじめてだからアイスショーのチケット相場という物が全くわからないのだが、本気でそんな額を出して見に行く人がいるのかと目を見開きたくなってしまう。
流石にそんなお値段では参加は出来ないので眺めているだけにしている。
ちなみに私の過去最高の高額チケットは定価1万5千円を3枚連番で21万(+送料+手数料)である。3枚連番で無ければもう少し安く手に入ったのだが、どうしてもそれで欲しかったのでそこまで値がつり上がってしまった。
しかしそのことを友人達には言えず殆どは自腹になってしまった。若気の至りと言うけど勢いがあった頃だから出来たことですw
アイスショーも出来れば行きたかったけど、今では流石にそこまでできない。読めない相場にむやみに手を出すのは危険なこと。手が出せる所までじっと我慢するかすっぱりと諦めるか、悩みどころです。
結局ここへ落ち着いてしまう
2010年5月16日 雑記昨年後半から伸ばしてきた髪を切った.
夏が近づき暑くなってきたため、うっとおしくなっていたので15センチほどばっさり落とした。
おかげで頭の軽い、コンタクト使用者には辛かった前髪もなくなり非常に良好である。
髪を伸ばしてちょっと装いを変えてみようと思ってみたが、やはり過ごしやすいのが私には一番のようである。なかなか世間一般の女性がするような楽しみは私には難しい物である。
前回の記事にコメント頂きありがとうございます。
先生の立場では色々思う事があるのでしょうね。本当に難しいものです。
夏が近づき暑くなってきたため、うっとおしくなっていたので15センチほどばっさり落とした。
おかげで頭の軽い、コンタクト使用者には辛かった前髪もなくなり非常に良好である。
髪を伸ばしてちょっと装いを変えてみようと思ってみたが、やはり過ごしやすいのが私には一番のようである。なかなか世間一般の女性がするような楽しみは私には難しい物である。
前回の記事にコメント頂きありがとうございます。
先生の立場では色々思う事があるのでしょうね。本当に難しいものです。
どう言うのが良いのだろう?
2010年5月13日 雑記 コメント (1)「何をやらせたら良いですか?」
疲れ切った顔でそう言われてしまった。経過を知った分気持ちがわかる。苦笑も出なかった。
3月末に今年の新卒が入った。
今年の新卒は4人、1ヶ月間工場研修(1週間経たないうちに一人辞めた・・・ハハハ)を行い5月1日からそれぞれの部署に振り分けられた。
事務にも一人やってきた。昨年の新卒の失敗から採用担当には事務員総意で高卒は駄目・社会経験がある人で、というお願いを前もって出しておいた。そしてやってきたのが専門学校卒・バイト経験もあるという20才の女の子だった。
初見の印象は悪くなかった。昨年は3人とも大人しいというか暗い印象だったが、今年の子は自然に笑顔が出せる明るい感じがした。愛嬌もあるので華やかになって良いだろうと単純に思った。
今年は新人教育の担当ではなかった。なるべく口は出さないようにした。小姑が大勢いたら若い人は動きにくいだろう、そう思ったからだ。
約10日が過ぎた。
気になったのは新人教育担当事務員が日に日にやつれていくことだった。何というか・・・顔が死んでいくような感じだった。
昨年の経験があるので人に教えるのはやはり大変なんだな、と改めて思い返したりしていた。
まぁ慣れてくれればそのうち彼女の気苦労も減っていくだろうしそれまで頑張ってと心の中でエールを送ったりしていた。
そして・・・冒頭の発言になる。
何でも今年の新人の子は何も覚えられない人間らしい。同じ事を10回教えても全く出来ないそうだ。おかげで彼女がやったことは後からもう一度全てやり直さなければならない。教えるだけでも手間なのにその全てを確認→修正していく訳だからその労力は半端無い。
それにしても、事務員として正しい仕事が出来ないというのは致命的ではないだろうか?工場と得意先あるいは営業と納品先などをスムーズにつなぐのが事務員の役目だ。機械的に正確に業務をこなすのがまず求められる機械の歯車のような存在だ。
しかし何回教えてもノートの書かせても覚えない正しくできないとなると一体何をさせればいいのか本当に悩んでしまう。担当事務員の真意は「いっそ帰ってくれないか」という物らしいがそう言う訳にもいかないだろう。
掃除でもさせたら?と言ったらテーブルをびしゃびしゃの台拭きで丸く拭く子ですよと返事が来た。どうやらその辺りはすでに試し済みらしい。
専門学校の専攻がビジネス科でビジネスマナーとかも勉強しているらしいが一体何を学んできたのか、あるいはその時点でもう覚えられてこなかったのかわからない。しかし会社はお金を払って学ばせてもらう学校とは違う。仕事を覚えることも給料を頂く仕事の一つだ。勤めている以上教えられたことを覚えて仕事をしていかなければならない。
何も任せられないと嘆く担当がそれでも何か任せなければいけないだろうかと問いかけてくる。どう言ってあげるのかが良いのか答えも慰める言葉も見つからなかった。
疲れ切った顔でそう言われてしまった。経過を知った分気持ちがわかる。苦笑も出なかった。
3月末に今年の新卒が入った。
今年の新卒は4人、1ヶ月間工場研修(1週間経たないうちに一人辞めた・・・ハハハ)を行い5月1日からそれぞれの部署に振り分けられた。
事務にも一人やってきた。昨年の新卒の失敗から採用担当には事務員総意で高卒は駄目・社会経験がある人で、というお願いを前もって出しておいた。そしてやってきたのが専門学校卒・バイト経験もあるという20才の女の子だった。
初見の印象は悪くなかった。昨年は3人とも大人しいというか暗い印象だったが、今年の子は自然に笑顔が出せる明るい感じがした。愛嬌もあるので華やかになって良いだろうと単純に思った。
今年は新人教育の担当ではなかった。なるべく口は出さないようにした。小姑が大勢いたら若い人は動きにくいだろう、そう思ったからだ。
約10日が過ぎた。
気になったのは新人教育担当事務員が日に日にやつれていくことだった。何というか・・・顔が死んでいくような感じだった。
昨年の経験があるので人に教えるのはやはり大変なんだな、と改めて思い返したりしていた。
まぁ慣れてくれればそのうち彼女の気苦労も減っていくだろうしそれまで頑張ってと心の中でエールを送ったりしていた。
そして・・・冒頭の発言になる。
何でも今年の新人の子は何も覚えられない人間らしい。同じ事を10回教えても全く出来ないそうだ。おかげで彼女がやったことは後からもう一度全てやり直さなければならない。教えるだけでも手間なのにその全てを確認→修正していく訳だからその労力は半端無い。
それにしても、事務員として正しい仕事が出来ないというのは致命的ではないだろうか?工場と得意先あるいは営業と納品先などをスムーズにつなぐのが事務員の役目だ。機械的に正確に業務をこなすのがまず求められる機械の歯車のような存在だ。
しかし何回教えてもノートの書かせても覚えない正しくできないとなると一体何をさせればいいのか本当に悩んでしまう。担当事務員の真意は「いっそ帰ってくれないか」という物らしいがそう言う訳にもいかないだろう。
掃除でもさせたら?と言ったらテーブルをびしゃびしゃの台拭きで丸く拭く子ですよと返事が来た。どうやらその辺りはすでに試し済みらしい。
専門学校の専攻がビジネス科でビジネスマナーとかも勉強しているらしいが一体何を学んできたのか、あるいはその時点でもう覚えられてこなかったのかわからない。しかし会社はお金を払って学ばせてもらう学校とは違う。仕事を覚えることも給料を頂く仕事の一つだ。勤めている以上教えられたことを覚えて仕事をしていかなければならない。
何も任せられないと嘆く担当がそれでも何か任せなければいけないだろうかと問いかけてくる。どう言ってあげるのかが良いのか答えも慰める言葉も見つからなかった。
大学の教育実習の頃だっただろうか?(私は教育学部だったので・・・)
最近は男の子に男らしくとか女の子に女らしくと言っていけないのだ、と聞いたのは。
正直な感想として、なんだそれ?だった。
別に男が男らしく女が女らしくするべきと言うのではない。そんなことわざわざ注意として言うことか?と思ったのである。
私が子供だったそれこそ20数年前は当然のように言われた言葉だった。女なんだからもう少し柔らかく話すべきだ、家事は当然出来るべきだ、愛嬌を持つべきだ・・・などなど色んなことを言われたものだ。内心、愛嬌はどうだって良いだろうと思ったがそれを言うともっと五月蠅くなるので聞き流していた。
そして現代である。今や家事は女性だけがすべきことではないし家計を支えるのも男性だけでないのが普通だ。女性も随分たくましくなったし家事が出来る男性も普通になった。
さて、本日のタイトルであるがかなり前からちょっと気になっていることである。
毎朝会社に車で通っている私だが、1年半位前から会社に直接行くのではなく系列の工場に寄ってから出社することになった。
直接行っていた時は会社の直前までバイパスを使っていたので歩行者や自転車に会うことは殆ど無い道路だった。しかし工場に寄ることになったのでかなり手前でバイパスを降り裏道を通らなくてはならなくなった。通学時間にかぶってしまうため高校生の自転車や歩いている中学生に気をつけなくてはならなくなった。
歩行者の場合は飛び出しに気をつければいいのでまだ楽だが、自転車は結構無法、後ろも見ずに突然進路変更をしたりするのでなかなかに神経を使う。土曜日に一人も人影車影を見ないとホッとしたりする。
そんな中で時々気になる光景に出会う。
たぶん高校生だと思うのだが6~7人の男の子が道に横並びに自転車を走らせているのだ。
道にいっぱいに広がって危ない、と思うより「気持ち悪い」と感じてしまう光景だ。
車が近づくと3・4くらいですっと左右に分かれ通してくれるのだが、通り過ぎるとまた左右から近づき横並びに戻るのである。
私の感覚では女子学生が集団化するというのはありがちである。しかし高校生位の男子が通学するのに5人以上で連なったりするのだろうか?高校生と言えば自己主張が強くなっている頃であるし下手につるむと言うことに気恥ずかしさを感じつっぱったり一人狼を気取ったりする頃ではないだろうか?
私が高校生の頃はチャリ通の男子と言えば自転車を滅茶苦茶なスピードで走らせて先生に見つかって怒られたりしていたのだが・・・どうもそう言った感覚とは全く違うらしい。まったりとしたスピードで時々会話しながら横並びに進んでいくのだ。
時代が違うと言われてしまえばそれまでだが、時々出会うその光景に何とも居心地の悪さを感じずにはいられないでいる。
最近は男の子に男らしくとか女の子に女らしくと言っていけないのだ、と聞いたのは。
正直な感想として、なんだそれ?だった。
別に男が男らしく女が女らしくするべきと言うのではない。そんなことわざわざ注意として言うことか?と思ったのである。
私が子供だったそれこそ20数年前は当然のように言われた言葉だった。女なんだからもう少し柔らかく話すべきだ、家事は当然出来るべきだ、愛嬌を持つべきだ・・・などなど色んなことを言われたものだ。内心、愛嬌はどうだって良いだろうと思ったがそれを言うともっと五月蠅くなるので聞き流していた。
そして現代である。今や家事は女性だけがすべきことではないし家計を支えるのも男性だけでないのが普通だ。女性も随分たくましくなったし家事が出来る男性も普通になった。
さて、本日のタイトルであるがかなり前からちょっと気になっていることである。
毎朝会社に車で通っている私だが、1年半位前から会社に直接行くのではなく系列の工場に寄ってから出社することになった。
直接行っていた時は会社の直前までバイパスを使っていたので歩行者や自転車に会うことは殆ど無い道路だった。しかし工場に寄ることになったのでかなり手前でバイパスを降り裏道を通らなくてはならなくなった。通学時間にかぶってしまうため高校生の自転車や歩いている中学生に気をつけなくてはならなくなった。
歩行者の場合は飛び出しに気をつければいいのでまだ楽だが、自転車は結構無法、後ろも見ずに突然進路変更をしたりするのでなかなかに神経を使う。土曜日に一人も人影車影を見ないとホッとしたりする。
そんな中で時々気になる光景に出会う。
たぶん高校生だと思うのだが6~7人の男の子が道に横並びに自転車を走らせているのだ。
道にいっぱいに広がって危ない、と思うより「気持ち悪い」と感じてしまう光景だ。
車が近づくと3・4くらいですっと左右に分かれ通してくれるのだが、通り過ぎるとまた左右から近づき横並びに戻るのである。
私の感覚では女子学生が集団化するというのはありがちである。しかし高校生位の男子が通学するのに5人以上で連なったりするのだろうか?高校生と言えば自己主張が強くなっている頃であるし下手につるむと言うことに気恥ずかしさを感じつっぱったり一人狼を気取ったりする頃ではないだろうか?
私が高校生の頃はチャリ通の男子と言えば自転車を滅茶苦茶なスピードで走らせて先生に見つかって怒られたりしていたのだが・・・どうもそう言った感覚とは全く違うらしい。まったりとしたスピードで時々会話しながら横並びに進んでいくのだ。
時代が違うと言われてしまえばそれまでだが、時々出会うその光景に何とも居心地の悪さを感じずにはいられないでいる。
がっかりすることはないんだけど・・・
2010年5月6日 雑記今年の1月にはじめて給料が上がった。本当は12月から上がる予定だったのだが忘れられていたので今年からになった。
残念ながら基本給ではなくなんとか手当という部類だったが、それでも上がった金額は思ったより多くまぁいいやと思った物だった。
しかしながら本日会社に出社したところ、残念な話を聞くことになった。
つまり・・・支給金額が間違っていました、という物だ。
なんでも1ヶ月忘れていたため1月にその分も含めた金額をあげてそのまま忘れていたらしい。その為来月から元に戻す、ということだ。
2~4月の出し過ぎていた分を返せと言われなかっただけましなのだが・・・実は1月から税金金額が間違っていたということでその分を多く手引かれている。純粋に給与が上がる金額ではその値上げ税金分より下回ってしまうため、結局昨年の12月から思えば手取金額が下がることになってしまう。
まぁ税金分の補填があったと思えば良いのだろうけど・・・連休明けに何ともやる気がなくなる話を聞いてしまったとため息を吐かずにはいられなかった。
残念ながら基本給ではなくなんとか手当という部類だったが、それでも上がった金額は思ったより多くまぁいいやと思った物だった。
しかしながら本日会社に出社したところ、残念な話を聞くことになった。
つまり・・・支給金額が間違っていました、という物だ。
なんでも1ヶ月忘れていたため1月にその分も含めた金額をあげてそのまま忘れていたらしい。その為来月から元に戻す、ということだ。
2~4月の出し過ぎていた分を返せと言われなかっただけましなのだが・・・実は1月から税金金額が間違っていたということでその分を多く手引かれている。純粋に給与が上がる金額ではその値上げ税金分より下回ってしまうため、結局昨年の12月から思えば手取金額が下がることになってしまう。
まぁ税金分の補填があったと思えば良いのだろうけど・・・連休明けに何ともやる気がなくなる話を聞いてしまったとため息を吐かずにはいられなかった。
つぶやきは最早独り言にあらず
2010年5月2日 雑記twitterというものがはやっていると言うことは何となく知っていた。政治家が自分の活動を広めるためによく利用しているなど聞いていたからだ。
しかし今まではそんなところを見に行ったことはなかった。日常など自分一人で精一杯で他の人のことまで知りたいなどと思わない。
また自分で利用するなどブログでも毎日更新など無理なのだからそんなこと考えもしなかった。
今日からGWということで朝からゆっくりネットを眺めていた。そんな中でどうしてかそのtwitterというところへいってしまった。当初そこがどんな場所かわからず変な外国語サイトにつながったぞと戸惑ったのだが、どうもそこは某有名外国人選手のtwitterだとしばらくして気がついた。
残念ながら英語以外の外国語は全く読めないため翻訳サイトを利用したのだが、これが上手く訳せない。なんというか昔テレビ番組にあったような連想ゲームのような状態になってしまった。
しかしながら日本にいながら外国の人の様子がわかるのは新鮮な驚きだった。
まぁ毎日チェックしたいと思うような人はいないので今後もあまり見ることはないだろう。しかしこういう物があるんだと知ったことは良いことだと思う。
それにしても話すことは英語も全く出来ない私。多少読む位は英語なら出来るが本気でtwitterしたいならそれ以外も出来た方が良いのかもしれない。大学でフランス語を習ったが今ではすっかり記憶の彼方である。
なにかもう一度勉強してみようかな・・・と一瞬本気で考えてしまった。
しかし今まではそんなところを見に行ったことはなかった。日常など自分一人で精一杯で他の人のことまで知りたいなどと思わない。
また自分で利用するなどブログでも毎日更新など無理なのだからそんなこと考えもしなかった。
今日からGWということで朝からゆっくりネットを眺めていた。そんな中でどうしてかそのtwitterというところへいってしまった。当初そこがどんな場所かわからず変な外国語サイトにつながったぞと戸惑ったのだが、どうもそこは某有名外国人選手のtwitterだとしばらくして気がついた。
残念ながら英語以外の外国語は全く読めないため翻訳サイトを利用したのだが、これが上手く訳せない。なんというか昔テレビ番組にあったような連想ゲームのような状態になってしまった。
しかしながら日本にいながら外国の人の様子がわかるのは新鮮な驚きだった。
まぁ毎日チェックしたいと思うような人はいないので今後もあまり見ることはないだろう。しかしこういう物があるんだと知ったことは良いことだと思う。
それにしても話すことは英語も全く出来ない私。多少読む位は英語なら出来るが本気でtwitterしたいならそれ以外も出来た方が良いのかもしれない。大学でフランス語を習ったが今ではすっかり記憶の彼方である。
なにかもう一度勉強してみようかな・・・と一瞬本気で考えてしまった。
私の父と母は1才違いだが、母が早生まれなので学年は同じ。
二人の世代は全く同じなので話題もだいたいあう。長く暮らすにはやはり会話が成立しないといけないのだろうな、と二人を見ていて思ったりする。
さて今日のタイトルであるが、二人を見ていてふと思ったことである。私はどっちになるのだろうか?と。
何かと言えば、髪の毛である。
我が家は父方も母方も禿げる系統ではないので髪の毛が無くなる心配は殆どしていない。ただ年を取れば髪は白くなる。
私の場合10代から白髪がありここ最近増えてきたのでちょっと気になったんだ。
「私の場合ゴマ塩とカッパのどっちになると思う?」
と父に聞いてみたら
「おまえは殆どお母さんと同じだからそっちになるに決まっているだろう」
とあっさり断言されてしまった。
ちなみにゴマ塩というのは白髪がまばらに黒髪のに入っている状態(年とともに白髪の割合が増えていく)でカッパは頭のてっぺんから真っ白になっていくもの。我が家の場合前者が父で後者が母だ。
私の希望としてはゴマ塩の方なのだが、どうも確率的にカッパ白髪になりそうな感じだ。
ゴマ塩なら髪を染めなくても良いかもしれないが、カッパの場合はたぶん染め続けなければいけないだろう。それは結構手間だし年を取ったら白髪でも構わないのにそのタイミングが難しい。
髪の毛位は父に似てくれればいいのに・・・と父の適度なゴマ塩加減を眺めながらふとため息を吐いた。
今日は凄く嫌な一日だったのでこんなくだらないことで気を紛らわせたりしている。
二人の世代は全く同じなので話題もだいたいあう。長く暮らすにはやはり会話が成立しないといけないのだろうな、と二人を見ていて思ったりする。
さて今日のタイトルであるが、二人を見ていてふと思ったことである。私はどっちになるのだろうか?と。
何かと言えば、髪の毛である。
我が家は父方も母方も禿げる系統ではないので髪の毛が無くなる心配は殆どしていない。ただ年を取れば髪は白くなる。
私の場合10代から白髪がありここ最近増えてきたのでちょっと気になったんだ。
「私の場合ゴマ塩とカッパのどっちになると思う?」
と父に聞いてみたら
「おまえは殆どお母さんと同じだからそっちになるに決まっているだろう」
とあっさり断言されてしまった。
ちなみにゴマ塩というのは白髪がまばらに黒髪のに入っている状態(年とともに白髪の割合が増えていく)でカッパは頭のてっぺんから真っ白になっていくもの。我が家の場合前者が父で後者が母だ。
私の希望としてはゴマ塩の方なのだが、どうも確率的にカッパ白髪になりそうな感じだ。
ゴマ塩なら髪を染めなくても良いかもしれないが、カッパの場合はたぶん染め続けなければいけないだろう。それは結構手間だし年を取ったら白髪でも構わないのにそのタイミングが難しい。
髪の毛位は父に似てくれればいいのに・・・と父の適度なゴマ塩加減を眺めながらふとため息を吐いた。
今日は凄く嫌な一日だったのでこんなくだらないことで気を紛らわせたりしている。
まだまだ続く・・・?
2010年4月26日 雑記相変わらず動画巡りを続けている。
お目当てはロシアのプルシェンコ選手と日本の伊藤みどり選手・・・男女ともに宇宙人と呼ばれるフィギュアスケーターのお二人。(悪い意味ではない・・・この場合は凄すぎるという意味のほめ言葉)
実を言えばどちらの選手も私はあまり好みじゃなかった。
伊藤みどり選手はまだ日本人だからそれなりに応援していたが、プルシェンコ選手は・・・もともとヤグディン選手が好きだったこともあったし、最初に見たのが白キノコ時代で自分が可愛いと言うことをよく理解しているあざとい子供という印象が強かったせいではっきり言えば嫌いだった。間違えのない天才であることは知っていたけど興味は全くなかった。
そんなわけでヤグディン選手が引退してからは大会の結果を眺める程度で男子は殆ど関心がなかった。
そんな印象を一変させたのが4年前のトリノオリンピックだった。それもSP・FSの競技ではなくEXのトスカ&カルーソーだ。
競技そのものは一人別格過ぎて順位得点に楽しむものはなかった。演技も安全運転そのものだった(体調不良もあったから)しソルトレイクの時のような燃え上がる感じはなかった。
それだけにというかそうだからこそを言うべきかEXは凄かった。別格過ぎる人間がその存在を誇示しようとするとこうなるのかと言わんばかり、まさにプルシェンコ祭りだった。実力が違いすぎる故それに異を唱えるなど思う事さえなかった。
伊藤選手についても現役時代はヴィット選手が好きだったこともあり、ただジャンプの人という印象しかなかった。ゴム鞠がはねているよう・・・という報道を鵜呑みにしていたのかもしれない。
そんなわけで数年前ネットで動画が見れることに気づいた時の衝撃は大きかった。
こんなにすごい選手だったんだ!!×2人である。何でちゃんと見てこなかったんだとものすごい後悔をした。
それでもこれまでは暇な時にちょっと眺める程度だったが、先日のオリンピック以降はほぼ毎日見に行ってしまう。なんというか・・・やりきれないというか振り切れない思いがじくじくと私の中に滞っているからだろう。
順位でも得点でもない、ただ凄いと思える演技を見たかったからだ。
順位や点数という結果で凄いと言うのではなく自分の中からわき上がってくる感動、それこそがスポーツを見る醍醐味だと私は思う。たとえ芸術性という数値に表せない評価があるフィギュアであっても自分の中でそれを感じ取れれば特に問題はない。
上澄みをすくったような味も素っ気もない物よりも灰汁のある方が個性的で生き生きと感じる。生きた人間が作り上げる演技であるのだからそちらの方が良いはずなのに残念ながら新採点方になってからはそう言った演技が失われてきてしまっている。
そんなわけで動画巡りを止められないでいる。
そんななか6月にプルシェンコ選手とランビエ―ル選手(引退しちゃったから選手じゃないか)がアイスショーのゲストで来日するという話を聞いた。ランビエ―ル氏はトリノOP以前から好きだった選手なのでこの組み合わせは是非見ておきたい。
プルシェンコ選手は5月に手術という話を聞いていたので本当に滑るのかは疑問なのだが、(ゲストなのでそんなに出番がないだろうけど)もし生で見れるなら貴重な機会になるだろう。
といってもアイスショーのチケットなんて経験がないので取れない可能性もあるがちょっと頑張ってみようかな、とシーズンは終わった物のまだまだ私の中の超限定的スケートブームは続いているようだ。
お目当てはロシアのプルシェンコ選手と日本の伊藤みどり選手・・・男女ともに宇宙人と呼ばれるフィギュアスケーターのお二人。(悪い意味ではない・・・この場合は凄すぎるという意味のほめ言葉)
実を言えばどちらの選手も私はあまり好みじゃなかった。
伊藤みどり選手はまだ日本人だからそれなりに応援していたが、プルシェンコ選手は・・・もともとヤグディン選手が好きだったこともあったし、最初に見たのが白キノコ時代で自分が可愛いと言うことをよく理解しているあざとい子供という印象が強かったせいではっきり言えば嫌いだった。間違えのない天才であることは知っていたけど興味は全くなかった。
そんなわけでヤグディン選手が引退してからは大会の結果を眺める程度で男子は殆ど関心がなかった。
そんな印象を一変させたのが4年前のトリノオリンピックだった。それもSP・FSの競技ではなくEXのトスカ&カルーソーだ。
競技そのものは一人別格過ぎて順位得点に楽しむものはなかった。演技も安全運転そのものだった(体調不良もあったから)しソルトレイクの時のような燃え上がる感じはなかった。
それだけにというかそうだからこそを言うべきかEXは凄かった。別格過ぎる人間がその存在を誇示しようとするとこうなるのかと言わんばかり、まさにプルシェンコ祭りだった。実力が違いすぎる故それに異を唱えるなど思う事さえなかった。
伊藤選手についても現役時代はヴィット選手が好きだったこともあり、ただジャンプの人という印象しかなかった。ゴム鞠がはねているよう・・・という報道を鵜呑みにしていたのかもしれない。
そんなわけで数年前ネットで動画が見れることに気づいた時の衝撃は大きかった。
こんなにすごい選手だったんだ!!×2人である。何でちゃんと見てこなかったんだとものすごい後悔をした。
それでもこれまでは暇な時にちょっと眺める程度だったが、先日のオリンピック以降はほぼ毎日見に行ってしまう。なんというか・・・やりきれないというか振り切れない思いがじくじくと私の中に滞っているからだろう。
順位でも得点でもない、ただ凄いと思える演技を見たかったからだ。
順位や点数という結果で凄いと言うのではなく自分の中からわき上がってくる感動、それこそがスポーツを見る醍醐味だと私は思う。たとえ芸術性という数値に表せない評価があるフィギュアであっても自分の中でそれを感じ取れれば特に問題はない。
上澄みをすくったような味も素っ気もない物よりも灰汁のある方が個性的で生き生きと感じる。生きた人間が作り上げる演技であるのだからそちらの方が良いはずなのに残念ながら新採点方になってからはそう言った演技が失われてきてしまっている。
そんなわけで動画巡りを止められないでいる。
そんななか6月にプルシェンコ選手とランビエ―ル選手(引退しちゃったから選手じゃないか)がアイスショーのゲストで来日するという話を聞いた。ランビエ―ル氏はトリノOP以前から好きだった選手なのでこの組み合わせは是非見ておきたい。
プルシェンコ選手は5月に手術という話を聞いていたので本当に滑るのかは疑問なのだが、(ゲストなのでそんなに出番がないだろうけど)もし生で見れるなら貴重な機会になるだろう。
といってもアイスショーのチケットなんて経験がないので取れない可能性もあるがちょっと頑張ってみようかな、とシーズンは終わった物のまだまだ私の中の超限定的スケートブームは続いているようだ。
書くことは難しいこと
2010年4月24日 雑記日記に書きたいと思うことはたくさんある。
一日過ごしていて今日の日記はこのことについて書こうか~なんて思うことも何度もある。社会的な出来事やイベントごとを見てそれについて考えたことや思いついたことを書いてもいいかなと感じることも多い。
しかしながら一日が終わりPCの前に座ったとき、そう思ったことをそのまま書くことはまずない。
それは思ったことが書いて残すほどのことかと言うこともあるし、あるいは思いついたときから時間が経ってしまいもはや自分の中で書く情熱を失ってしまっているからであることも多い。
だが書かないことの理由で一番多いのは自分が思ったことが本当に人の目に触れても良い内容なのか?と疑問に感じてしまうことである。
一方的な意見をそのまま垂れ流しにすることは決してよいことではない。特に感情が入ってしまっている場合は危険だ。言葉は時に凶器となりうる。私はその危険を良く知っているつもりだからできるだけ冷静に文章は書きたいと思っている。
そのため憤ったり不快に感じたとしても自分の中である程度客観的に状況判断ができるまでは書くべきではいと言う結論に達してしまうとなかなか文章に起こすことができなくなってしまう。そのうちに・・・時間が過ぎてしまうことによって今更書いても意味がないかな~と結局書かないままできてしまうことが多い。
ちょっと前何度か触れたフィギュアスケートの話は、かなり批判色が強いものだ。これについては仮に否定的意見を書かれてもたぶん自分の考えは変わらないだろうと書いたものだ。
オリンピックの商業化の悪癖の象徴みたいになってしまった今回のバンクーバーフィギュアに対して私は決してそれが正しい路だとは思いたくないし思わないだろう。結果についてもきっとずっと納得できないままだ。(ソルトレイクについては最初の判定どおりのままで良かったと思ったが・・・)
まして世界選手権については選手の演技は見ても順位得点についてはすでになかったことになっている。まぁ別の意味で問題を感じた人が多くなり様々に声が上がり始めているのでそれはそれでよかったのかもしれないが・・・体質改善と言うものはどこの組織もすぐにできるものでない以上まだまだ不快な思いをしないわけにはいかないだろう。ただテレビで見るだけのファンですらこの状態なら実際中に居る選手達の苦労を思うと本当に心が痛む。それだけに書かずにはいられなかった。
だがそこまで強く思えることと言うのは実際あまりない。それだけにこう何日も書かない日が続くと今度は書くことが怖くなってくる。書きたい、今日はこれを書こうと思うことすらなくなってくる。不思議なことだと自分でも思う。
別に誰かに向かって書いているわけじゃない。元々は自分の記憶整理のために書き始めたのだからもっと思ったことを素直に書けばいいのに・・・なんて自分に向かって思ったりしてなんだか可笑しくなってくるが実際には笑えなかったりするわけだ。
思うことは自由であり考えは日々変わり行く。人の心を覗く術がないためそれがどんなものであれ外に現さない以上批難を受けるいわれはない。しかし文字として残された言葉は(たとえ後に削除したとしても)存在したをいう事実がある限りその責は免れない。
言葉と言うものは自由であるがとても不自由なものであると言う事実を日記を書こうとするときにいつも痛感している。
一日過ごしていて今日の日記はこのことについて書こうか~なんて思うことも何度もある。社会的な出来事やイベントごとを見てそれについて考えたことや思いついたことを書いてもいいかなと感じることも多い。
しかしながら一日が終わりPCの前に座ったとき、そう思ったことをそのまま書くことはまずない。
それは思ったことが書いて残すほどのことかと言うこともあるし、あるいは思いついたときから時間が経ってしまいもはや自分の中で書く情熱を失ってしまっているからであることも多い。
だが書かないことの理由で一番多いのは自分が思ったことが本当に人の目に触れても良い内容なのか?と疑問に感じてしまうことである。
一方的な意見をそのまま垂れ流しにすることは決してよいことではない。特に感情が入ってしまっている場合は危険だ。言葉は時に凶器となりうる。私はその危険を良く知っているつもりだからできるだけ冷静に文章は書きたいと思っている。
そのため憤ったり不快に感じたとしても自分の中である程度客観的に状況判断ができるまでは書くべきではいと言う結論に達してしまうとなかなか文章に起こすことができなくなってしまう。そのうちに・・・時間が過ぎてしまうことによって今更書いても意味がないかな~と結局書かないままできてしまうことが多い。
ちょっと前何度か触れたフィギュアスケートの話は、かなり批判色が強いものだ。これについては仮に否定的意見を書かれてもたぶん自分の考えは変わらないだろうと書いたものだ。
オリンピックの商業化の悪癖の象徴みたいになってしまった今回のバンクーバーフィギュアに対して私は決してそれが正しい路だとは思いたくないし思わないだろう。結果についてもきっとずっと納得できないままだ。(ソルトレイクについては最初の判定どおりのままで良かったと思ったが・・・)
まして世界選手権については選手の演技は見ても順位得点についてはすでになかったことになっている。まぁ別の意味で問題を感じた人が多くなり様々に声が上がり始めているのでそれはそれでよかったのかもしれないが・・・体質改善と言うものはどこの組織もすぐにできるものでない以上まだまだ不快な思いをしないわけにはいかないだろう。ただテレビで見るだけのファンですらこの状態なら実際中に居る選手達の苦労を思うと本当に心が痛む。それだけに書かずにはいられなかった。
だがそこまで強く思えることと言うのは実際あまりない。それだけにこう何日も書かない日が続くと今度は書くことが怖くなってくる。書きたい、今日はこれを書こうと思うことすらなくなってくる。不思議なことだと自分でも思う。
別に誰かに向かって書いているわけじゃない。元々は自分の記憶整理のために書き始めたのだからもっと思ったことを素直に書けばいいのに・・・なんて自分に向かって思ったりしてなんだか可笑しくなってくるが実際には笑えなかったりするわけだ。
思うことは自由であり考えは日々変わり行く。人の心を覗く術がないためそれがどんなものであれ外に現さない以上批難を受けるいわれはない。しかし文字として残された言葉は(たとえ後に削除したとしても)存在したをいう事実がある限りその責は免れない。
言葉と言うものは自由であるがとても不自由なものであると言う事実を日記を書こうとするときにいつも痛感している。
1年半ほど前頃からドコモから「movaのサービスが終了するので変更して下さい」という内容が何度か届くようになった。とはいえ携帯は月に何度か友人にメールするのと遠出した時の帰宅時間の連絡位しか使わない私。まだ期間があるから良いや~とずっと先延ばししてきた。
携帯自体も5年以上使用しているが特に困ることはない。何しろ殆ど使わないから壊れようもない。13~4年携帯を使っているが無料通話分使い切ったことはたぶん無いのではないかと思われる。多少バッテリー切れが早くなったな、と思う程度なので0円携帯が無くなった今となっては変える方が損だと思っていた。
更に携帯には亡くなった猫の写真が入っている。赤外線通信など無かった時代の物だからたぶん新しい物には移せない。
そんな諸々の理由もあり気がつけば1年半以上経っていたわけだ。
そして先週末、とうとう携帯を買い換えることになった。両親の元に4月中のmovaからfomaの切り替えに割引が付くという葉書が来たからだ。ついでにおまえも買い変えろと言われドコモショップに連れて行かれた。
父は母と二人分買い換えで10万以上すると思っていたらしい。私にも最低5万は持って行けと言ってきた。私はそんなに掛かるわけ無いじゃんと思いつつ一応4万5千円ほど用意はしていった。
実際6年近くぶりにショップに行ったが当時とは比べものにならない位本体価格が高かった。しかも充電コードやホルダーは別料金と以前とはサービス自体も変わっている。父や母の使おうとしているらくらくホンはまだ低価格だが通常タイプの携帯はどれも軽く4万以上した。
あまり携帯には興味がないし値段だけ見ていると本当に買う気が失せてくる。しかしそれでも年に数回は携帯が必要な時がある。昨今公衆電話を殆ど見なくなり携帯がないと困る体験をしてきているからここはやはり買わないという選択は選べなかった。
そんなわけで結局買い換えたわけだが機種決定の全ては値段、である。らくらくホン以外の最も安い機種をただ選んだだけだ。別にメールと通話が出来ればいい。携帯にこだわりはない。単純な理由である。
movaからfomaへの切り替えは通常の機種変更よりずっと低価格で出来た。次の変更はこういう訳にはいかないのかと思うとちょっと憂鬱だが、今回はポイントもあって結局1万7千円ほどの出費ですむことになった。
それでも前の機種よりずっと使いやすくなっただろう、と新しい携帯には期待していた。何しろ今までのは6年以上前の製品だ。(買い換えた時はすでに型落ち商品だったから・・・)
価格も価格だからきっと良い物だろう、当然にそう思っていた。
しかし実際使ってみるとこれが不便で仕方ない。液晶が奇麗だったり構図が可愛かったりするのだが、別にそんな物には興味がない。使う機能が使いやすくあってくれればいいのだがこちらの方がさっぱりだった。
携帯電話の説明書をちゃんと読んで使用する人はどのくらいいるのだろう?私は今回で4台目の携帯電話だが過去の携帯でも説明書を読んだことはたぶん無い。動かしてみて使い方を知るタイプで後は携帯に慣れた人に便利な機能を教えてもらう位だ。そんなわけでマナーモードの簡単なやり方を知ったのはほんの2ねんくらい前だったりする。それでも使いたい物を使う分には十分だった。
しかし今回はこうはいかなかった。あれこれやってみたがよくわからず結局説明書を読む羽目になった。しかし・・・結局読んでもあまり効果はなかった。自分の知りたい機能については記述がなかったからだ。
携帯電話を変更してみて、自分が今まで携帯の機能で最も何を使用していたのか初めてわかった。メールでもネットでもない、もちろん通話でもなかったしゲームやカメラでもない。携帯で私が最も使用してるのはアラーム機能だった。
朝起きる時間、会社に行く時間、殆ど毎日使用している。目覚まし時計を部屋に置かない私にはこれがないと朝起きることも出来ないのだ。
もちろん新しい携帯にもアラームはある。しかし前の携帯は鳴る時刻、曜日、曲、そしてアラームが鳴る時間ときちんと設定できた。だが新しい物はこうはいかない。
時刻と曜日は出来るのだが曲がまずよくわからない。以前は元々10曲位入っていてダウンロードしなくても使えたが今回はどうもそう言う物がないらしい。(機械音のようなアラーム音はあるけど・・・)おまけにどこを探してもアラームの鳴る時間の設定がない。(アラームが何分おきに流れるかという物はあるがこんな物は使わない)その為いちいちアラームを消すという作業が必要になる。これは寝起きには非常に嫌な行為だ。
デコメなどそれなりに機能は多いらしいが面倒なだけで使う事はないだろう。そんな物より日常生活に使う単純機能だけにしてくれる方がずっと良い。そうすればもっと本体価格も安くなるだろうに・・・と考えた時ふと「もしかしたららくらくホンの方が良かったんじゃ?」と思ってしまった。らくらくホンにアラーム機能があるのかどうかは知らないがもしあったなら1万7千円の費用の半分は無駄な出費になったのかもしれない。
30代後半でらくらくホンを使う事は恥ずかしいことなのかな・・・とふと思ってしまった事は世間の認識に合わないのか今ひとつ自分の感覚の正常さが信用できなくなっている。
携帯自体も5年以上使用しているが特に困ることはない。何しろ殆ど使わないから壊れようもない。13~4年携帯を使っているが無料通話分使い切ったことはたぶん無いのではないかと思われる。多少バッテリー切れが早くなったな、と思う程度なので0円携帯が無くなった今となっては変える方が損だと思っていた。
更に携帯には亡くなった猫の写真が入っている。赤外線通信など無かった時代の物だからたぶん新しい物には移せない。
そんな諸々の理由もあり気がつけば1年半以上経っていたわけだ。
そして先週末、とうとう携帯を買い換えることになった。両親の元に4月中のmovaからfomaの切り替えに割引が付くという葉書が来たからだ。ついでにおまえも買い変えろと言われドコモショップに連れて行かれた。
父は母と二人分買い換えで10万以上すると思っていたらしい。私にも最低5万は持って行けと言ってきた。私はそんなに掛かるわけ無いじゃんと思いつつ一応4万5千円ほど用意はしていった。
実際6年近くぶりにショップに行ったが当時とは比べものにならない位本体価格が高かった。しかも充電コードやホルダーは別料金と以前とはサービス自体も変わっている。父や母の使おうとしているらくらくホンはまだ低価格だが通常タイプの携帯はどれも軽く4万以上した。
あまり携帯には興味がないし値段だけ見ていると本当に買う気が失せてくる。しかしそれでも年に数回は携帯が必要な時がある。昨今公衆電話を殆ど見なくなり携帯がないと困る体験をしてきているからここはやはり買わないという選択は選べなかった。
そんなわけで結局買い換えたわけだが機種決定の全ては値段、である。らくらくホン以外の最も安い機種をただ選んだだけだ。別にメールと通話が出来ればいい。携帯にこだわりはない。単純な理由である。
movaからfomaへの切り替えは通常の機種変更よりずっと低価格で出来た。次の変更はこういう訳にはいかないのかと思うとちょっと憂鬱だが、今回はポイントもあって結局1万7千円ほどの出費ですむことになった。
それでも前の機種よりずっと使いやすくなっただろう、と新しい携帯には期待していた。何しろ今までのは6年以上前の製品だ。(買い換えた時はすでに型落ち商品だったから・・・)
価格も価格だからきっと良い物だろう、当然にそう思っていた。
しかし実際使ってみるとこれが不便で仕方ない。液晶が奇麗だったり構図が可愛かったりするのだが、別にそんな物には興味がない。使う機能が使いやすくあってくれればいいのだがこちらの方がさっぱりだった。
携帯電話の説明書をちゃんと読んで使用する人はどのくらいいるのだろう?私は今回で4台目の携帯電話だが過去の携帯でも説明書を読んだことはたぶん無い。動かしてみて使い方を知るタイプで後は携帯に慣れた人に便利な機能を教えてもらう位だ。そんなわけでマナーモードの簡単なやり方を知ったのはほんの2ねんくらい前だったりする。それでも使いたい物を使う分には十分だった。
しかし今回はこうはいかなかった。あれこれやってみたがよくわからず結局説明書を読む羽目になった。しかし・・・結局読んでもあまり効果はなかった。自分の知りたい機能については記述がなかったからだ。
携帯電話を変更してみて、自分が今まで携帯の機能で最も何を使用していたのか初めてわかった。メールでもネットでもない、もちろん通話でもなかったしゲームやカメラでもない。携帯で私が最も使用してるのはアラーム機能だった。
朝起きる時間、会社に行く時間、殆ど毎日使用している。目覚まし時計を部屋に置かない私にはこれがないと朝起きることも出来ないのだ。
もちろん新しい携帯にもアラームはある。しかし前の携帯は鳴る時刻、曜日、曲、そしてアラームが鳴る時間ときちんと設定できた。だが新しい物はこうはいかない。
時刻と曜日は出来るのだが曲がまずよくわからない。以前は元々10曲位入っていてダウンロードしなくても使えたが今回はどうもそう言う物がないらしい。(機械音のようなアラーム音はあるけど・・・)おまけにどこを探してもアラームの鳴る時間の設定がない。(アラームが何分おきに流れるかという物はあるがこんな物は使わない)その為いちいちアラームを消すという作業が必要になる。これは寝起きには非常に嫌な行為だ。
デコメなどそれなりに機能は多いらしいが面倒なだけで使う事はないだろう。そんな物より日常生活に使う単純機能だけにしてくれる方がずっと良い。そうすればもっと本体価格も安くなるだろうに・・・と考えた時ふと「もしかしたららくらくホンの方が良かったんじゃ?」と思ってしまった。らくらくホンにアラーム機能があるのかどうかは知らないがもしあったなら1万7千円の費用の半分は無駄な出費になったのかもしれない。
30代後半でらくらくホンを使う事は恥ずかしいことなのかな・・・とふと思ってしまった事は世間の認識に合わないのか今ひとつ自分の感覚の正常さが信用できなくなっている。
今週から会社に税務署が入った。
前の会社に7年半いた時にも2度入った。5年に一度位と当時聞いていた割に入社4年で2回も入った。当時もすでに不景気だったから取れる会社には回りが早いということかもしれない。
今の会社も私が入る1年ほど前に入ったばかりだそうだ。わずか3年足らず。
今回は前回よりかなり細かく見ているそうだ。底を打ったとはいえ地方の中小企業で税を搾り取れるところは少ない。取れるだけ取ってやろうと言うことか。
彼らのやり方はそれはそれで仕事だから良いんだが、そんなことをして通常の納税を減らすことになっても別に責任取る訳じゃないんだよね。一時金を一瞬増やしても長い目で損か得かははっきりしない。
現に前の会社も2回目にかなりひどく取られたらその年から赤字転落して結局税務署が入れないような会社になってしまった。
結局無駄なことをしたんじゃないかと思ったもんだ。
今回はどの程度の追加が来るのかまだわからないが、まぁ責任感もほどほどにしておいてくれと願うばかりだ。
前の会社に7年半いた時にも2度入った。5年に一度位と当時聞いていた割に入社4年で2回も入った。当時もすでに不景気だったから取れる会社には回りが早いということかもしれない。
今の会社も私が入る1年ほど前に入ったばかりだそうだ。わずか3年足らず。
今回は前回よりかなり細かく見ているそうだ。底を打ったとはいえ地方の中小企業で税を搾り取れるところは少ない。取れるだけ取ってやろうと言うことか。
彼らのやり方はそれはそれで仕事だから良いんだが、そんなことをして通常の納税を減らすことになっても別に責任取る訳じゃないんだよね。一時金を一瞬増やしても長い目で損か得かははっきりしない。
現に前の会社も2回目にかなりひどく取られたらその年から赤字転落して結局税務署が入れないような会社になってしまった。
結局無駄なことをしたんじゃないかと思ったもんだ。
今回はどの程度の追加が来るのかまだわからないが、まぁ責任感もほどほどにしておいてくれと願うばかりだ。
フィギュアスケートは本当にスポーツなのか?
2010年3月28日 雑記採点競技についての問題点はそれが主観というか思惑によって左右されがちなことだ。思惑ーというか言ってみれば政治力、そのスポーツ世界の中での権力に振り回され結果本当ににそれが正しい順位・点数なのかと疑問を持たせる判定がでてしまうことにある。
採点競技は色々あるが、オリンピックの舞台において大きくその不正が取り上げられたのが、ソルトレイクオリンピックにおけるフィギュアスケートだ。ミスをした組が勝ちしなかった組が2位となり抗議しジャッジの不正があったと言うことで両者金メダルになった。
だがその当時の採点法ではミスがあるないで結果が決まるのではなかった。芸術性と技術性が別々に採点されその合計で決まっていたからミスをして技術点が下がっても芸術点がそれをカバーすれば勝てたのだ。
どちらかと言えば当時の騒動はフィギュア大国ロシアの勢いをそぎたい北米勢力との権力闘争に利用されたように思えて仕方ない。
その結果生まれたが新採点方だ。演技を全体的に審判が主観で決めるのではなく行ったエレメント一つ一つに得点をつけその合計で競おうという物だった。
それまでのように審判に覚えられないと点数がでないと言うことは少なくなり高い技術力を持った無名選手が突然上位に出てくるなんて事も起こるようになった。
トリノオリンピックの頃までは比較的この新採点方は上手く使われていたと思う。一度のミスが点数に響くというのは選手にはプレッシャーになっただろうが見ている素人にはわかりやすく説明をされて納得出来たからだ。点数が出やすい技ばかりになってしまうのは多少面白味に欠けた(一時女子はビールマンばかりやる選手が増えたり)がそれほど見ている感覚とずれた採点はなされていなかった。
しかし問題はその後だ。
見ている観客の感覚と採点が奇妙にずれを生じだしたのだ。
その結果、より難しい高度な技をやるよりも簡単な技をやった方が得、というスポーツでは本来あり得ない方向に動き出してしまったのだ。
おまけに審判による加点・減点の基準がわかりにくくまた一定しない。
同じ演技が同じ点数にならない時点でもおかしいが同じ技をして加点が付く選手と付かない選手がある一定の法則で見えだしてくるとこれは何か裏があるのではと勘ぐりたくなってきてしまう。ある意味全体評価の旧採点以上に審判の主観が浮き上がってしまうからだ。
旧採点がそれでも良かったのはある意味でジャッジが責任を持っていたことにある。各審判がその演技を演技全体の中ではっきりと何位と示したからだ。1票とか僅差で判断が分かれた場合には政治力が絡んでしまう事もあっただろうが、たいていの場合は見ている人とそれほど変わりのない判断が出されていたと思う。
しかし今の採点はそうじゃない。審判は採点に責任を持っているようには見えない。そもそもどの審判がこの採点をしたのか明らかにならない時点で責任は放棄されている。
また一つ一つのエレメントの採点においても勝たせたい選手には他より多めに加点をつけ、減点を減らせばいい。ある程度審判団に意志が通っていればみんな同じように「少しずつ」多くすることによって合計が「当然多く」なり、結果、審判団の総意でこの採点がなされた事になるからだ。各ジャッジ一人一人にその責任が負わされる心配がない。
もし加点が多すぎたのでは?と問われればそれは私だけじゃないと言えば良いだけのことだ。これではあまりにも無責任だ。
トリノで行われた世界選手権の結果に今とても失望している。
シングルで男女とも日本人が優勝という喜ばしい結果であるが、こんなに見て後味が悪いのであればこの先もう見るのを止めようかとも思ってくる。
選手達の責任ではないことは先に言う。大抵の選手は今できる精一杯を熱演してくれたと思う。それは素直にたたえたい。
しかしながらジャッジの一貫性のなさは呆れる以外ない。何故それほどのまで点数を調整しようとするのか。一人一人の選手それぞれの演技ではなく最初から枠を作りその枠内で調整しているようにしか見えない。選手のがんばりがその枠を超えることが決して出来なくなっている。これが本当にスポーツの姿なのだろうか?
これが現行のルールだから・・・ここ3年ほどに見られるよくわからない採点のたびにそう言う言葉が聞かれてきた。そしてまた今回も、そう言わざるを得ないだろうか?審判団やスケート協会にはあの会場の歓声とブーイングが聞こえないのだろうか?あの観客の反応こそが真実の結果だろう。
今回の世界選手権の男女シングルの結果について点数はともかく1位は日本人の二人であったことは間違いないと思う。しかし2位以下は違う。確実に違うと思う。それは実際の会場の雰囲気を見れば明らかだ。
ライブ以外のテレビ放映は都合良く編集されてしまいわからないかもしれない。でも探せばライブで流された物があるので是非見て欲しい。最早スポーツではなくなってしまった悲しい喜劇の姿を見ることが出来るはずだ。
採点競技は色々あるが、オリンピックの舞台において大きくその不正が取り上げられたのが、ソルトレイクオリンピックにおけるフィギュアスケートだ。ミスをした組が勝ちしなかった組が2位となり抗議しジャッジの不正があったと言うことで両者金メダルになった。
だがその当時の採点法ではミスがあるないで結果が決まるのではなかった。芸術性と技術性が別々に採点されその合計で決まっていたからミスをして技術点が下がっても芸術点がそれをカバーすれば勝てたのだ。
どちらかと言えば当時の騒動はフィギュア大国ロシアの勢いをそぎたい北米勢力との権力闘争に利用されたように思えて仕方ない。
その結果生まれたが新採点方だ。演技を全体的に審判が主観で決めるのではなく行ったエレメント一つ一つに得点をつけその合計で競おうという物だった。
それまでのように審判に覚えられないと点数がでないと言うことは少なくなり高い技術力を持った無名選手が突然上位に出てくるなんて事も起こるようになった。
トリノオリンピックの頃までは比較的この新採点方は上手く使われていたと思う。一度のミスが点数に響くというのは選手にはプレッシャーになっただろうが見ている素人にはわかりやすく説明をされて納得出来たからだ。点数が出やすい技ばかりになってしまうのは多少面白味に欠けた(一時女子はビールマンばかりやる選手が増えたり)がそれほど見ている感覚とずれた採点はなされていなかった。
しかし問題はその後だ。
見ている観客の感覚と採点が奇妙にずれを生じだしたのだ。
その結果、より難しい高度な技をやるよりも簡単な技をやった方が得、というスポーツでは本来あり得ない方向に動き出してしまったのだ。
おまけに審判による加点・減点の基準がわかりにくくまた一定しない。
同じ演技が同じ点数にならない時点でもおかしいが同じ技をして加点が付く選手と付かない選手がある一定の法則で見えだしてくるとこれは何か裏があるのではと勘ぐりたくなってきてしまう。ある意味全体評価の旧採点以上に審判の主観が浮き上がってしまうからだ。
旧採点がそれでも良かったのはある意味でジャッジが責任を持っていたことにある。各審判がその演技を演技全体の中ではっきりと何位と示したからだ。1票とか僅差で判断が分かれた場合には政治力が絡んでしまう事もあっただろうが、たいていの場合は見ている人とそれほど変わりのない判断が出されていたと思う。
しかし今の採点はそうじゃない。審判は採点に責任を持っているようには見えない。そもそもどの審判がこの採点をしたのか明らかにならない時点で責任は放棄されている。
また一つ一つのエレメントの採点においても勝たせたい選手には他より多めに加点をつけ、減点を減らせばいい。ある程度審判団に意志が通っていればみんな同じように「少しずつ」多くすることによって合計が「当然多く」なり、結果、審判団の総意でこの採点がなされた事になるからだ。各ジャッジ一人一人にその責任が負わされる心配がない。
もし加点が多すぎたのでは?と問われればそれは私だけじゃないと言えば良いだけのことだ。これではあまりにも無責任だ。
トリノで行われた世界選手権の結果に今とても失望している。
シングルで男女とも日本人が優勝という喜ばしい結果であるが、こんなに見て後味が悪いのであればこの先もう見るのを止めようかとも思ってくる。
選手達の責任ではないことは先に言う。大抵の選手は今できる精一杯を熱演してくれたと思う。それは素直にたたえたい。
しかしながらジャッジの一貫性のなさは呆れる以外ない。何故それほどのまで点数を調整しようとするのか。一人一人の選手それぞれの演技ではなく最初から枠を作りその枠内で調整しているようにしか見えない。選手のがんばりがその枠を超えることが決して出来なくなっている。これが本当にスポーツの姿なのだろうか?
これが現行のルールだから・・・ここ3年ほどに見られるよくわからない採点のたびにそう言う言葉が聞かれてきた。そしてまた今回も、そう言わざるを得ないだろうか?審判団やスケート協会にはあの会場の歓声とブーイングが聞こえないのだろうか?あの観客の反応こそが真実の結果だろう。
今回の世界選手権の男女シングルの結果について点数はともかく1位は日本人の二人であったことは間違いないと思う。しかし2位以下は違う。確実に違うと思う。それは実際の会場の雰囲気を見れば明らかだ。
ライブ以外のテレビ放映は都合良く編集されてしまいわからないかもしれない。でも探せばライブで流された物があるので是非見て欲しい。最早スポーツではなくなってしまった悲しい喜劇の姿を見ることが出来るはずだ。
新しいGパンを買った。
昨年の夏から始めた減量でだいぶサイズダウンしていたことを知っていたが、緩いままで今まで使っていた。ベルトを使えばまだ履けるし・・・と。
しかし会社に履いていくものは色も褪せこれからの季節に履き続けるにはかなりさわりがあると思われる。ここらで新しいものを、と温かくなったこの日買いに行くことにした。
それにしてもニュースなどで聞いていたがここしばらくで随分物の値段が下がった。
結局買ったGパンは1,500円弱だったが、なんとなく「高い」と思えてしまった。ニュースで800円だの600円台だの聞いていたせいだ。1,500円だって昔から見れば安かったのに・・・なかなか人間は満足できない生き物だ。
しかしGパンのウエストサイズが8センチも下がった事には驚いた。痩せた意識はあったが数字で改めて知ると何となく感動する。
なかなか生きていて日頃の成果という物を見ることは難しい事が多い。その中でこういう事を実感を出来たことはちょっと嬉しかった。
昨年の夏から始めた減量でだいぶサイズダウンしていたことを知っていたが、緩いままで今まで使っていた。ベルトを使えばまだ履けるし・・・と。
しかし会社に履いていくものは色も褪せこれからの季節に履き続けるにはかなりさわりがあると思われる。ここらで新しいものを、と温かくなったこの日買いに行くことにした。
それにしてもニュースなどで聞いていたがここしばらくで随分物の値段が下がった。
結局買ったGパンは1,500円弱だったが、なんとなく「高い」と思えてしまった。ニュースで800円だの600円台だの聞いていたせいだ。1,500円だって昔から見れば安かったのに・・・なかなか人間は満足できない生き物だ。
しかしGパンのウエストサイズが8センチも下がった事には驚いた。痩せた意識はあったが数字で改めて知ると何となく感動する。
なかなか生きていて日頃の成果という物を見ることは難しい事が多い。その中でこういう事を実感を出来たことはちょっと嬉しかった。
我が家には暖房器具が炬燵しかない。
一応エアコンはあるんだがこれは夏しか使わない。
その為冬になると家族皆炬燵に集う事になる。
その炬燵の異変に気づいたのは正月が過ぎてしばらくした頃だ。電源を入れたのに温かくならない時があるのだ。
原因はすぐにわかった。炬燵のコンセントプラグとコードのつなぎ目が緩くなっていたのだ。
完全に切れているわけではないので接触が悪い時だけ炬燵が温かくならない。そのため当面はそのつなぎ目をテープで固定してしのぐことにした。父の友人に元技術の先生がいるのでそのうちに直してもらうつもりだった。
しかしながらなかなか予定が合わずそのままずるずると時が経った。
そしてようやく昨日元先生が家にやってきた。様子を見て必要なものを買いに行くと手早く直してゆく。この程度なら誰でも出来ますよ、と言うけれどなかなかやってみようとは思えない。やっているところを見てる分には簡単そうだけど・・・
1時間も掛からないで先生は作業を終えて帰って行った。帰り際先生が笑いながらちょっと怖いことを言った。
「火事にならなくて良かったですね」と。
言われた意味がわからずコンセントのあったところをよく見ると床に5センチほどの焦げ痕を見つけた。どうやら緩くなったコードの作ったものらしい。漏電していたと言うことだ。
しかもその痕は炬燵敷き布団の下にあった。もし発火していたら燃えるものはあったわけだ。焦がした程度で済んで良かった。
些細なことでも見逃していると大きな危険になることもある、ということを理解させる出来事だった。
前回の記事に幾つかコメント頂きました。
これからの対応の参考にさせて頂きます。
どうもありがとうございました。
一応エアコンはあるんだがこれは夏しか使わない。
その為冬になると家族皆炬燵に集う事になる。
その炬燵の異変に気づいたのは正月が過ぎてしばらくした頃だ。電源を入れたのに温かくならない時があるのだ。
原因はすぐにわかった。炬燵のコンセントプラグとコードのつなぎ目が緩くなっていたのだ。
完全に切れているわけではないので接触が悪い時だけ炬燵が温かくならない。そのため当面はそのつなぎ目をテープで固定してしのぐことにした。父の友人に元技術の先生がいるのでそのうちに直してもらうつもりだった。
しかしながらなかなか予定が合わずそのままずるずると時が経った。
そしてようやく昨日元先生が家にやってきた。様子を見て必要なものを買いに行くと手早く直してゆく。この程度なら誰でも出来ますよ、と言うけれどなかなかやってみようとは思えない。やっているところを見てる分には簡単そうだけど・・・
1時間も掛からないで先生は作業を終えて帰って行った。帰り際先生が笑いながらちょっと怖いことを言った。
「火事にならなくて良かったですね」と。
言われた意味がわからずコンセントのあったところをよく見ると床に5センチほどの焦げ痕を見つけた。どうやら緩くなったコードの作ったものらしい。漏電していたと言うことだ。
しかもその痕は炬燵敷き布団の下にあった。もし発火していたら燃えるものはあったわけだ。焦がした程度で済んで良かった。
些細なことでも見逃していると大きな危険になることもある、ということを理解させる出来事だった。
前回の記事に幾つかコメント頂きました。
これからの対応の参考にさせて頂きます。
どうもありがとうございました。
昨夜遅く通りすがりの者様という方からコメントにてご意見を頂きました。
私の対応が悪くご不快にさせてしまったようです。大変申し訳ないと同時にコメントを頂きありがたく思います。
基本私はどこのブログでも現在はコメントをしておりません。日参しているブログもありますが一度もご挨拶をしたことは無かったですし今後も…おそらくしないかと思います。
そういった私の姿勢をもっと早くブログの中で公表しておくべきだったと反省しております。
そして私のブログに頂いたコメントについてはやはり何か返答ないしお礼をするべきだったのでしょう。至らない対応で大変申し訳なく思います。
私がネットを始めたのは1993年2月でした。あるHPの会員になりたくてノートPCを購入したところから始まりました。
1年ほどで自分のサイトを持ち同じジャンルのサイトの方々と交流を持つようになり、今まで身近にそういった人を探すのが難しかったのにネットと言うのは便利で良いと当初は思っていました。
ところが2~3年ほど経った頃、別の方の掲示板(当時はブログと言うものはなかった気がします。交流はたいてい掲示板でした)でかなり激しいやり取りが勃発し今で言う炎上のような状態になったのです。サイト主様の書かれた言葉を取り違えた方がいて激しい感情のやり取りに発展してしまったのです。
文字やイラストなどでのやり取りしかないネット環境で起こるべくして起こったことなのかもしれませんが、そういった経験は初めてだったので私は非常に恐怖を感じました。
結局その後しばらくして私は自分の掲示板をそしてサイトも止めることにしました。自分が知らないうちに誰かを傷つけてしまうかもしれないことが怖かったからです。
それ以降よそ様のサイトに訪問しても基本的にコメントはしないようになりました。(若干例外はありますが。)
昨年ブログをやってみようと思ったのは、自分の記録管理のためでした。あれがいつのことだったのか思い出せない…というようなことが多くなってきたので前を思い返すのに便利ではないかと思ったからです。
そのため当初はコメント欄はなしにするつもりでした。
しかしながらそうしなかったのは読まれた方のご意見を書ける場所があったほうがいいのでは思ったからです。自分の思ったことや感じたことを書いていますが、書き方が悪く誰かを傷つけてしまった時とかあるいは思い違い勘違いなどの内容の誤りがあるときそれを指摘できる場所があったほうがいいのではないか、と。
もしそういったご指摘を受けたとき記事を書き直したりあるいは取り下げたりできるようにコメント欄を残したのです。(私はメールアドレスを公開していないので…)
訪れて下さった方のご挨拶コメントに対して無視したような感じになってしまったことは大変申し訳なく思います。コメントを頂いたことはうれしかったのでそのように翌日の記事にでも書くべきでした。
今後は頂いたコメントに対して何か見えるような形で対応したいと思います。
通りすがりの者様ご意見大変ありがとうございます。もしよろしければまた何か私の至らないところがありましたらご意見いただきたいと思います。
私の対応が悪くご不快にさせてしまったようです。大変申し訳ないと同時にコメントを頂きありがたく思います。
基本私はどこのブログでも現在はコメントをしておりません。日参しているブログもありますが一度もご挨拶をしたことは無かったですし今後も…おそらくしないかと思います。
そういった私の姿勢をもっと早くブログの中で公表しておくべきだったと反省しております。
そして私のブログに頂いたコメントについてはやはり何か返答ないしお礼をするべきだったのでしょう。至らない対応で大変申し訳なく思います。
私がネットを始めたのは1993年2月でした。あるHPの会員になりたくてノートPCを購入したところから始まりました。
1年ほどで自分のサイトを持ち同じジャンルのサイトの方々と交流を持つようになり、今まで身近にそういった人を探すのが難しかったのにネットと言うのは便利で良いと当初は思っていました。
ところが2~3年ほど経った頃、別の方の掲示板(当時はブログと言うものはなかった気がします。交流はたいてい掲示板でした)でかなり激しいやり取りが勃発し今で言う炎上のような状態になったのです。サイト主様の書かれた言葉を取り違えた方がいて激しい感情のやり取りに発展してしまったのです。
文字やイラストなどでのやり取りしかないネット環境で起こるべくして起こったことなのかもしれませんが、そういった経験は初めてだったので私は非常に恐怖を感じました。
結局その後しばらくして私は自分の掲示板をそしてサイトも止めることにしました。自分が知らないうちに誰かを傷つけてしまうかもしれないことが怖かったからです。
それ以降よそ様のサイトに訪問しても基本的にコメントはしないようになりました。(若干例外はありますが。)
昨年ブログをやってみようと思ったのは、自分の記録管理のためでした。あれがいつのことだったのか思い出せない…というようなことが多くなってきたので前を思い返すのに便利ではないかと思ったからです。
そのため当初はコメント欄はなしにするつもりでした。
しかしながらそうしなかったのは読まれた方のご意見を書ける場所があったほうがいいのでは思ったからです。自分の思ったことや感じたことを書いていますが、書き方が悪く誰かを傷つけてしまった時とかあるいは思い違い勘違いなどの内容の誤りがあるときそれを指摘できる場所があったほうがいいのではないか、と。
もしそういったご指摘を受けたとき記事を書き直したりあるいは取り下げたりできるようにコメント欄を残したのです。(私はメールアドレスを公開していないので…)
訪れて下さった方のご挨拶コメントに対して無視したような感じになってしまったことは大変申し訳なく思います。コメントを頂いたことはうれしかったのでそのように翌日の記事にでも書くべきでした。
今後は頂いたコメントに対して何か見えるような形で対応したいと思います。
通りすがりの者様ご意見大変ありがとうございます。もしよろしければまた何か私の至らないところがありましたらご意見いただきたいと思います。
正しい大衆演劇の見せ方・・・?
2010年3月7日 宝塚歌劇 コメント (1)ヅカ版の『ベルサイユのばら』って大衆演劇だったんだ・・・
それが今回の雪組公演『ソルフェリーノの夜明け』を見た最初の感想だった。
往復13時間以上電車に乗って土・日の2公演を大劇場で見てきた。
今回の公演は宝塚でベルばらをやった植田先生の作品だ。正直昭和丸出しの演出家でこれまでいくつか見てきたが面白かったと思ったことのない先生だったのでまるで期待はしていなかった。青春18切符が使える期間でやっている公演だったのでチケットを取ってみただけだった。(ハマコさんとゆみこさんのラスト公演を見たかったのが一番の理由だが・・・)
ベルばらの原作ファンとしてはあのぶっ飛んだ世界をベルばらと言った感覚は全く理解できない。しかしこれまではベルばらを大衆演劇だとは思ったことはなかった。しかし今回考えを改めることになった。なにしろ題材こそ違え見せ方はまるきり同じだったからだ。
演出を呼べるものはたぶん殆ど無い。ただひたすら台詞で説明し話を進めていく芝居だ。セリも盆も・・・その他大劇場の機能は幕以外殆ど使われない。書き割り背景に設置したら動かないセット、舞台とカーテン前と銀橋を交互に使っていくだけだ。
登場人物が話す以外の情報は全く無いといっていい。しゃべる時はひたすらしゃべる、台詞のない時間は殆ど無いため真剣に聞いていると時々意識が遠ざかる。(長時間電車に乗った疲れもあると思うが・・・)
ただしベテランだけ合って泣かせるところは妙に泣かせる。何回かそう言う部分があるのだが眠り掛けていた意識が急速に引きつけられるのは(演者の熱演もあるが)なかなかといわざるを得ない。
後はひたすら主題歌を繰り返す。何回歌ったかわからなくなるくらい聞くので2公演見ると歌詞を含めて完璧に覚えてしまうという…なんというか妙な植田マジックに落とされてしまう。
結局面白かったかどうか自分が気に入ったかはともかく芝居を見たという気にさせてしまうあたりが大衆演劇とよく似ている。
今回に限ってはベルばらのように不愉快に感じるシーンがない分だけ結構ましかなと思う。何しろ主人公に恋愛場面がないのでストーリーに破綻が生じない(植田先生の場合主人公に恋愛場面があると人格がおかしくなる)ので順調に進んでいくのだ。
ただこれから東京公演に行くにあたり多少手直しをするべきだと思う。脚本はたぶん変えられないと思うので演出をちょっと手直ししたらもう少しお客も納得できるのではと思うのだ。
一つ目は最初のショーの部分のみなこちゃん登場場面。トップ娘役の最初の登場が下手中段の幕から走ってだったときには「しょぼっ!」と正直笑ってしまった。
あの場面前列真ん中にいる水さんと花かごセットの間に空間があるのでその間からセリ上がりすればいいと思う。どこから現れたかわからないような人影からではなくきれいなトップ娘役がきれいな衣装でセリ上がってきたら「わぁーきれい~」となるのではないだろうか?
二つ目は最後のはまこさんの心変わりの場面の理由付けの弱さである。主人公が「自分を撃て!」といって心変わりするような人物ではないことはオーストリア将軍の場面でわかっている。最後の場面はまこさんは高い位置にいるので2階席からは表情もよく見えない。キムちゃんがまったく変わらないのにはまこさんが心変わりするのは正直納得できなかった。
だからあの場面水さんはイタリア軍人側(客席に半分背を向けて)に両手を広げて訴えるがそれを客席に向けてやるようにしてその背後に映像か何かで十字架につるされたキリストもしくは十字架を一瞬見せたらどうだろうか。キムちゃんは気がつかなくてもはまこさんやオーストリア軍人は気がつくようにすれば神の意思が見えたということで変心したと視覚で客も納得できるだろう。はまこさんの役が神の教えを重んじることはそれまでの会話で出てきているのだからそれで十分納得できるだろう。台詞だけでなく舞台をすべて使って客を理解させることが演出だろうと思う。
この2点を変えるだけでも結構印象は変わると思う。東京公演の前に手直ししてみたらいいのにと帰りの電車の中でリフレインする主題歌を思い返しながら考えていた。
それが今回の雪組公演『ソルフェリーノの夜明け』を見た最初の感想だった。
往復13時間以上電車に乗って土・日の2公演を大劇場で見てきた。
今回の公演は宝塚でベルばらをやった植田先生の作品だ。正直昭和丸出しの演出家でこれまでいくつか見てきたが面白かったと思ったことのない先生だったのでまるで期待はしていなかった。青春18切符が使える期間でやっている公演だったのでチケットを取ってみただけだった。(ハマコさんとゆみこさんのラスト公演を見たかったのが一番の理由だが・・・)
ベルばらの原作ファンとしてはあのぶっ飛んだ世界をベルばらと言った感覚は全く理解できない。しかしこれまではベルばらを大衆演劇だとは思ったことはなかった。しかし今回考えを改めることになった。なにしろ題材こそ違え見せ方はまるきり同じだったからだ。
演出を呼べるものはたぶん殆ど無い。ただひたすら台詞で説明し話を進めていく芝居だ。セリも盆も・・・その他大劇場の機能は幕以外殆ど使われない。書き割り背景に設置したら動かないセット、舞台とカーテン前と銀橋を交互に使っていくだけだ。
登場人物が話す以外の情報は全く無いといっていい。しゃべる時はひたすらしゃべる、台詞のない時間は殆ど無いため真剣に聞いていると時々意識が遠ざかる。(長時間電車に乗った疲れもあると思うが・・・)
ただしベテランだけ合って泣かせるところは妙に泣かせる。何回かそう言う部分があるのだが眠り掛けていた意識が急速に引きつけられるのは(演者の熱演もあるが)なかなかといわざるを得ない。
後はひたすら主題歌を繰り返す。何回歌ったかわからなくなるくらい聞くので2公演見ると歌詞を含めて完璧に覚えてしまうという…なんというか妙な植田マジックに落とされてしまう。
結局面白かったかどうか自分が気に入ったかはともかく芝居を見たという気にさせてしまうあたりが大衆演劇とよく似ている。
今回に限ってはベルばらのように不愉快に感じるシーンがない分だけ結構ましかなと思う。何しろ主人公に恋愛場面がないのでストーリーに破綻が生じない(植田先生の場合主人公に恋愛場面があると人格がおかしくなる)ので順調に進んでいくのだ。
ただこれから東京公演に行くにあたり多少手直しをするべきだと思う。脚本はたぶん変えられないと思うので演出をちょっと手直ししたらもう少しお客も納得できるのではと思うのだ。
一つ目は最初のショーの部分のみなこちゃん登場場面。トップ娘役の最初の登場が下手中段の幕から走ってだったときには「しょぼっ!」と正直笑ってしまった。
あの場面前列真ん中にいる水さんと花かごセットの間に空間があるのでその間からセリ上がりすればいいと思う。どこから現れたかわからないような人影からではなくきれいなトップ娘役がきれいな衣装でセリ上がってきたら「わぁーきれい~」となるのではないだろうか?
二つ目は最後のはまこさんの心変わりの場面の理由付けの弱さである。主人公が「自分を撃て!」といって心変わりするような人物ではないことはオーストリア将軍の場面でわかっている。最後の場面はまこさんは高い位置にいるので2階席からは表情もよく見えない。キムちゃんがまったく変わらないのにはまこさんが心変わりするのは正直納得できなかった。
だからあの場面水さんはイタリア軍人側(客席に半分背を向けて)に両手を広げて訴えるがそれを客席に向けてやるようにしてその背後に映像か何かで十字架につるされたキリストもしくは十字架を一瞬見せたらどうだろうか。キムちゃんは気がつかなくてもはまこさんやオーストリア軍人は気がつくようにすれば神の意思が見えたということで変心したと視覚で客も納得できるだろう。はまこさんの役が神の教えを重んじることはそれまでの会話で出てきているのだからそれで十分納得できるだろう。台詞だけでなく舞台をすべて使って客を理解させることが演出だろうと思う。
この2点を変えるだけでも結構印象は変わると思う。東京公演の前に手直ししてみたらいいのにと帰りの電車の中でリフレインする主題歌を思い返しながら考えていた。
昔は良かったと言いたくないが・・・
2010年3月4日 雑記 コメント (2)ここ数日、動画サイトでフィギュアスケートを見ている。
切っ掛けはバンクーバーオリンピックのエキシビションだった。
私がフィギュアスケートが好きな理由の一つにエキシビションがあげられる。競技の緊張感から解放された選手達が自由の演じてくれるおまけではある。試合では見られないスケートの魅力が垣間見れるのも良い。
今回はオリンピックと言うことでエキシビションもいつも以上に面白いだろうと期待して見ていた。
ところが・・・実際の演技は期待はずれというか、はっきり言ってつまらない内容だった。
銀メダルを取ったロシアのプルシェンコ氏が早々に出てきて会場を沸かせたもののその後はどんどん盛り下がっていく。あげくにオリンピックのエキシビションなのに金メダリストにアンコールすら起こらない。最後に地元のカナダ金メダリストが登場し何とか会場も沸いたが、それでも今まで見た中で最も盛り上がらなかったエキシビションだったように思えた。
あまりにも消化不良だったため昔の映像を見て満足しようと動画サイトに行ったのだ。
ヤグディン氏、キャンデロロ氏、スルツカヤ氏、伊藤みどり氏など往年の名選手達そして今回も参加したプルシェンコ氏の数々の映像を見て楽しんだ。なんというか昨今にはない疾走感や躍動感そして華やかさを味わった。
そして動画を幾つも見ている内に「プルシェンコ氏が言っていたのはこういう事だったのかな・・・」と自分の中にすとんと落ちてきた考えがあった。
それはオリンピック中に氏が言った「男子であれば4回転に挑戦するべき」と言うものだ。
新聞などではプルシェンコ氏がジャンプが得意なので言ったように報道された。終了後に新たに「採点システムは変更されるべきだ。五輪王者が4回転ジャンプの跳び方を知らないならば、男子シングルではなくアイスダンスに名前を変えなくてはならない」と言った時にはまるで負けたのにみっともない的に伝えたものもあった。
私には正直そこまで4回転にこだわることもないのに、と思った部分があった。
現行の難しい技をやった方が損な評価は止めるべきである。例えばダウングレードによる二重減点を止め難しい技の基礎点を上げる。更には出来映えによる加点をもっと制限するか、基礎点を上げ加点を止め技の完成度による減点方式にする。そうすれば少なくても挑戦する価値は出来る。
加速する4回転競争に怪我する選手が増え制限がかかった部分もある。どうしても飛べない選手もいるしそれで良いのでは・・・と私は単純に思っていた。
しかしながらバンクーバーオリンピックのエキシビションを見てそして昔のフィギュアの映像を見て、プルシェンコ氏が言いたかったのは別に4回転のことではないのでは?と思ったのだ。
エキシビションというのはおまけであるので競技でやるような高難度の技はあまりない。競技で無いのに怪我をするような危険は犯さないのは当然である。
しかし一方でおまけであるからこそ出来ることがある。例えば昔フランスにボナリ―氏という選手がいたがこの人はよくバックフリップを見せていた。これは競技では禁止されているのでエキシビションならではの楽しみだった。
ロロ氏も試合では出来ないスピンをやっていたし他にも普段あり得ない組み合わせの競演などがあった。
さて今回のエキシビションでプルシェンコ氏はなんと3Aを2度も飛んでいた。氏はもともとエキシビションを沸かせることの上手い人である。色んな格好をしてでてきて驚かせたり突然(着ぐるみを着ているが)脱ぎ出したり・・・今回のエキシビションでも3Aでそして試合ではレベル1になってしまう高速ステップなどを見せ最もその演技で会場を盛り上げた。
一方他の人達はなんというか試合の延長のような演技が多かった。試合でやる技を少しランクを落として演じている・・・そう言う印象がぬぐえない。エキシビションならではと言うものはあまり無かった。
プルシェンコ氏がわざわざ3Aを2回飛んだのは意味があると思う。3Aは決して簡単な技ではない。ランビエ―ル氏はどうしても今期上手く降りられずプログラムから外してしまったし、実際の試合でもこれをミスする選手が何人もいた。その位のレベルの技だ。
それでも氏はエキシビションで2回もとんだ。自分は飛べるという自信があるからだろう。それも確実に決めるではなく絶対に降りるという意志によって。
オリンピック前に「4回転を跳ばなくてもプルシェンコに勝てる」と豪語した選手がいた。4回転に試合で挑戦したことのない選手だった。
しかしその選手は結局試合で一度も3Aをまともに飛ぶことが出来ず自滅した。もちろんエキシビションに飛べようはずが無い。
しかしプルシェンコ氏は試合で決め銀メダルを獲得しエキシビションでも決めた。この差はどこにあるのだろう?
今のルールでは技のレベルによって点数を獲得する。点数を取りやすい似たような技ばかりどの選手もするようになる。また内容を詰め込んでも減点の口実を増やすだけなので極力そう言ったものを減らす傾向にある。
その究極がキム・ヨナ選手のプログラムである。所々で休憩を入れ動き出しのスピードの印象をつける。技と技の間にあまりつなぎを入れないスカスカのプログラムにして減点を減らしまた体力の減少も防ぐ。省エネプログラムだ。
そうなるとやらなければならない技は上手くなる(それでもキム選手は2シーズン位前の方がスパイラル等上手く見える)がそれだけだ。
エキシビションで自由に滑っても良いよと言われても試合でやっている内容以上のものを作り出せない。それは多かれ少なかれ他の選手にも言えると思う。
かつてもっと高度な技をとか自分なりの見せ方をと追求していた頃はもっと自由な魅力があった。仮に試合で使えなくてもエキシビションで自分の魅力を伝えるのに有効であった。この選手ならではの楽しみ方と言うものがあったと思う。
だからこそ技術の追求が実は芸術性も高めることになっていたと思う。
4回転発言をしたプルシェンコ氏について日本のあるアナウンサーが「プルシェンコはジャンプだけの選手。芸術性が足りない」と言った。プルシェンコ氏のかつて芸術点満点を取った演技を知らないのかそれともブランクがあるため現行の採点システムには合わないと思ったのかそれはわからない。
とにかくもジャンプの選手と思われているかもしれないがプルシェンコ氏こそかつて芸術性の選手と言われた人なのだ。その芸術性を表現するのに必要だったのが卓越した技術だ。そしてその技術があるからこそブランクがあり採点方式の変更があってもそれに対応しメダルを獲得することが出来、また幅広いエンター性をエキシビションで表現できるのだ。
プルシェンコ氏の最盛期は2001年~2003年位だと思う。つまりトリノで金を取った時も今回のバンクーバーもピークが過ぎているわけだ。(しかもどちらも体調不良、トリノは食中毒だったし…)それでもメダルを取れるトップ選手である。
最盛期の氏は4-3-3を飛んでいるし、練習で3Lo-3Lo-3Loを飛んでいる動画を見たことがある。怪我の影響で当時やっていた幾つかはできなくなっているが元々できることが多い分今なおその地位を保っている。だからこそエキシビションで2回3Aを飛ぶなんてことができる。だから先ほどの「プルシェンコをを倒せる」と言った選手のプログラムをただなぞるだけならたぶん氏には不可能でないだろう。
しかしその選手が最盛期の氏のプログラムをなぞることは不可能だ。そもそも4回転が飛べないしそれを抜きにしても音楽の1音1音すべてを表現したかのようなステップも女子選手並みのビールマンスピンも曲の最初から最後まで高速にすべり難度の高いジャンプを飛び続ける…現行ではほとんど点数にならないことであるためやってみようとも思わなかっただろう。やらない以上決してできることはない。
氏はできることが多くあるので現行のルールのあわせ「やらない」選択ができる。しかし今の選手の多くは点数がもらえることしかやらないしできない。限られた中でやるしかない。やらないのではなく「やれない」のだ。
「やらない」と「やれない」はそもそも時限の違う話だ。「やらない」人はルールの無いところではもっと違うことができるが「やれない」人はやれる範囲でやるしかない。だからエキシビションが試合の二番煎じみたいなものばかりになってしまう。代わり映えの無いものばかり見せられれば飽きたりつまらなくなったりする。
より幅広い表現、その人ならではの演技、そしてフィギュアスケートの発展、それには現行の出来る技をただ正確にすべるだけでは足りないとプルシェンコ氏は思ったのだろう。出来る技術が少なくてより発展することが出来るのか?高見を目指さずにその向こうの世界を見ることは出来ない。そう言う意味で「4回転は必要」と言ったのではないだろうか?
実際、欧州ではフィギュア離れが進んでいる。観客数は減っているし新しい話題の選手もなかなか出てこない。日本がオリンピックシングル種目で全員入賞という快挙をなせたのもそう言う背景がある。
10年前の演技と最近の演技、どちらが面白いかと言われれば私は残念ながら前の方を選んでしまう。ヤグディン(昔はヤグージンって言ってた気がする・・・)氏とプルシェンコ氏が競っていた頃のフィギュアがとても魅力的に感じる。画像も荒いし音も良くない、それでも魅力を感じずにいられない何かがある。
機会があったら一度ネットの動画でも良いので見てみるのも良いかもしれない。見てみれば・・・私が感じた何かを理解して貰えるかもしれない。
切っ掛けはバンクーバーオリンピックのエキシビションだった。
私がフィギュアスケートが好きな理由の一つにエキシビションがあげられる。競技の緊張感から解放された選手達が自由の演じてくれるおまけではある。試合では見られないスケートの魅力が垣間見れるのも良い。
今回はオリンピックと言うことでエキシビションもいつも以上に面白いだろうと期待して見ていた。
ところが・・・実際の演技は期待はずれというか、はっきり言ってつまらない内容だった。
銀メダルを取ったロシアのプルシェンコ氏が早々に出てきて会場を沸かせたもののその後はどんどん盛り下がっていく。あげくにオリンピックのエキシビションなのに金メダリストにアンコールすら起こらない。最後に地元のカナダ金メダリストが登場し何とか会場も沸いたが、それでも今まで見た中で最も盛り上がらなかったエキシビションだったように思えた。
あまりにも消化不良だったため昔の映像を見て満足しようと動画サイトに行ったのだ。
ヤグディン氏、キャンデロロ氏、スルツカヤ氏、伊藤みどり氏など往年の名選手達そして今回も参加したプルシェンコ氏の数々の映像を見て楽しんだ。なんというか昨今にはない疾走感や躍動感そして華やかさを味わった。
そして動画を幾つも見ている内に「プルシェンコ氏が言っていたのはこういう事だったのかな・・・」と自分の中にすとんと落ちてきた考えがあった。
それはオリンピック中に氏が言った「男子であれば4回転に挑戦するべき」と言うものだ。
新聞などではプルシェンコ氏がジャンプが得意なので言ったように報道された。終了後に新たに「採点システムは変更されるべきだ。五輪王者が4回転ジャンプの跳び方を知らないならば、男子シングルではなくアイスダンスに名前を変えなくてはならない」と言った時にはまるで負けたのにみっともない的に伝えたものもあった。
私には正直そこまで4回転にこだわることもないのに、と思った部分があった。
現行の難しい技をやった方が損な評価は止めるべきである。例えばダウングレードによる二重減点を止め難しい技の基礎点を上げる。更には出来映えによる加点をもっと制限するか、基礎点を上げ加点を止め技の完成度による減点方式にする。そうすれば少なくても挑戦する価値は出来る。
加速する4回転競争に怪我する選手が増え制限がかかった部分もある。どうしても飛べない選手もいるしそれで良いのでは・・・と私は単純に思っていた。
しかしながらバンクーバーオリンピックのエキシビションを見てそして昔のフィギュアの映像を見て、プルシェンコ氏が言いたかったのは別に4回転のことではないのでは?と思ったのだ。
エキシビションというのはおまけであるので競技でやるような高難度の技はあまりない。競技で無いのに怪我をするような危険は犯さないのは当然である。
しかし一方でおまけであるからこそ出来ることがある。例えば昔フランスにボナリ―氏という選手がいたがこの人はよくバックフリップを見せていた。これは競技では禁止されているのでエキシビションならではの楽しみだった。
ロロ氏も試合では出来ないスピンをやっていたし他にも普段あり得ない組み合わせの競演などがあった。
さて今回のエキシビションでプルシェンコ氏はなんと3Aを2度も飛んでいた。氏はもともとエキシビションを沸かせることの上手い人である。色んな格好をしてでてきて驚かせたり突然(着ぐるみを着ているが)脱ぎ出したり・・・今回のエキシビションでも3Aでそして試合ではレベル1になってしまう高速ステップなどを見せ最もその演技で会場を盛り上げた。
一方他の人達はなんというか試合の延長のような演技が多かった。試合でやる技を少しランクを落として演じている・・・そう言う印象がぬぐえない。エキシビションならではと言うものはあまり無かった。
プルシェンコ氏がわざわざ3Aを2回飛んだのは意味があると思う。3Aは決して簡単な技ではない。ランビエ―ル氏はどうしても今期上手く降りられずプログラムから外してしまったし、実際の試合でもこれをミスする選手が何人もいた。その位のレベルの技だ。
それでも氏はエキシビションで2回もとんだ。自分は飛べるという自信があるからだろう。それも確実に決めるではなく絶対に降りるという意志によって。
オリンピック前に「4回転を跳ばなくてもプルシェンコに勝てる」と豪語した選手がいた。4回転に試合で挑戦したことのない選手だった。
しかしその選手は結局試合で一度も3Aをまともに飛ぶことが出来ず自滅した。もちろんエキシビションに飛べようはずが無い。
しかしプルシェンコ氏は試合で決め銀メダルを獲得しエキシビションでも決めた。この差はどこにあるのだろう?
今のルールでは技のレベルによって点数を獲得する。点数を取りやすい似たような技ばかりどの選手もするようになる。また内容を詰め込んでも減点の口実を増やすだけなので極力そう言ったものを減らす傾向にある。
その究極がキム・ヨナ選手のプログラムである。所々で休憩を入れ動き出しのスピードの印象をつける。技と技の間にあまりつなぎを入れないスカスカのプログラムにして減点を減らしまた体力の減少も防ぐ。省エネプログラムだ。
そうなるとやらなければならない技は上手くなる(それでもキム選手は2シーズン位前の方がスパイラル等上手く見える)がそれだけだ。
エキシビションで自由に滑っても良いよと言われても試合でやっている内容以上のものを作り出せない。それは多かれ少なかれ他の選手にも言えると思う。
かつてもっと高度な技をとか自分なりの見せ方をと追求していた頃はもっと自由な魅力があった。仮に試合で使えなくてもエキシビションで自分の魅力を伝えるのに有効であった。この選手ならではの楽しみ方と言うものがあったと思う。
だからこそ技術の追求が実は芸術性も高めることになっていたと思う。
4回転発言をしたプルシェンコ氏について日本のあるアナウンサーが「プルシェンコはジャンプだけの選手。芸術性が足りない」と言った。プルシェンコ氏のかつて芸術点満点を取った演技を知らないのかそれともブランクがあるため現行の採点システムには合わないと思ったのかそれはわからない。
とにかくもジャンプの選手と思われているかもしれないがプルシェンコ氏こそかつて芸術性の選手と言われた人なのだ。その芸術性を表現するのに必要だったのが卓越した技術だ。そしてその技術があるからこそブランクがあり採点方式の変更があってもそれに対応しメダルを獲得することが出来、また幅広いエンター性をエキシビションで表現できるのだ。
プルシェンコ氏の最盛期は2001年~2003年位だと思う。つまりトリノで金を取った時も今回のバンクーバーもピークが過ぎているわけだ。(しかもどちらも体調不良、トリノは食中毒だったし…)それでもメダルを取れるトップ選手である。
最盛期の氏は4-3-3を飛んでいるし、練習で3Lo-3Lo-3Loを飛んでいる動画を見たことがある。怪我の影響で当時やっていた幾つかはできなくなっているが元々できることが多い分今なおその地位を保っている。だからこそエキシビションで2回3Aを飛ぶなんてことができる。だから先ほどの「プルシェンコをを倒せる」と言った選手のプログラムをただなぞるだけならたぶん氏には不可能でないだろう。
しかしその選手が最盛期の氏のプログラムをなぞることは不可能だ。そもそも4回転が飛べないしそれを抜きにしても音楽の1音1音すべてを表現したかのようなステップも女子選手並みのビールマンスピンも曲の最初から最後まで高速にすべり難度の高いジャンプを飛び続ける…現行ではほとんど点数にならないことであるためやってみようとも思わなかっただろう。やらない以上決してできることはない。
氏はできることが多くあるので現行のルールのあわせ「やらない」選択ができる。しかし今の選手の多くは点数がもらえることしかやらないしできない。限られた中でやるしかない。やらないのではなく「やれない」のだ。
「やらない」と「やれない」はそもそも時限の違う話だ。「やらない」人はルールの無いところではもっと違うことができるが「やれない」人はやれる範囲でやるしかない。だからエキシビションが試合の二番煎じみたいなものばかりになってしまう。代わり映えの無いものばかり見せられれば飽きたりつまらなくなったりする。
より幅広い表現、その人ならではの演技、そしてフィギュアスケートの発展、それには現行の出来る技をただ正確にすべるだけでは足りないとプルシェンコ氏は思ったのだろう。出来る技術が少なくてより発展することが出来るのか?高見を目指さずにその向こうの世界を見ることは出来ない。そう言う意味で「4回転は必要」と言ったのではないだろうか?
実際、欧州ではフィギュア離れが進んでいる。観客数は減っているし新しい話題の選手もなかなか出てこない。日本がオリンピックシングル種目で全員入賞という快挙をなせたのもそう言う背景がある。
10年前の演技と最近の演技、どちらが面白いかと言われれば私は残念ながら前の方を選んでしまう。ヤグディン(昔はヤグージンって言ってた気がする・・・)氏とプルシェンコ氏が競っていた頃のフィギュアがとても魅力的に感じる。画像も荒いし音も良くない、それでも魅力を感じずにいられない何かがある。
機会があったら一度ネットの動画でも良いので見てみるのも良いかもしれない。見てみれば・・・私が感じた何かを理解して貰えるかもしれない。
勉強が出来ることが頭の良いことではない
2010年3月2日 雑記 コメント (1)衆議院議員城内実氏のブログが炎上に近い状況だ。
発端は彼が書いた女子フィギュアスケートの結果に対するコラムだ。
韓国のキム・ヨナ選手は早くからカナダで練習するなどオリンピックで金メダルを取るために大変努力した。浅田選手など日本人選手は努力が足りず完敗であった・・・と言うような事が書かれていた。
おそらく文面の最後にちらっと出てくるスポーツ振興にもっと国を挙げていかないと・・・ということを言いたかったと推測するが、書き方が悪すぎた。
選手に対し「お疲れ様」などのねぎらいの一つもない。そもそも日本代表選手の名前を間違えている。明らかにフィギュアスケート競技の知識が無く点数や諸々新聞テレビなどで報道された程度の情報のみで自己の理論を展開している・・・などなどオリンピックなど大きなイベント事の時に良く見かける世間の話題に乗ってみた素人の文章だ。
私はたぶん書かれてからそれほど時間の経っていない頃にそれを見た。フィギュアはかなり好きなのでそれ関係のブログやニュースを渡っている内に引っかかったのだ。
読んで最初に思ったのは「この人東大卒で元官僚で勉強は出来るだろうけどバカだったんだな~」というものだった。
別に軽蔑したわけでもないし怒ったわけもない、ただ多少の呆れと同情を感じたくらいだ。少なくても自分の関心のない事例については無知なんだと言うことがよくわかったからだ。
その時にもすでにコメントは付いていた。中にはかなり詳しい方が無知な議員にフィギュアスケートのルールや採点方式の問題点などを説明しているものも幾つかあった。そう言ったコメントを読めば自分の無知加減や選手やコラムの読者に不快に感じさせたことが理解できるだろう。
きっとそのうちコラムを取り下げるか謝罪コメントを出すのだろう、と当初はたいした事じゃないと思った。
時事ネタによく知らないながらも自分なりの意見をつけたいのは世間ではよくあること。代議士でありながらといわれればそうかもしれないが口が滑ることは誰にだってある。
しかしながらその後コラムに1,000近くのコメントが付きながら一向に静まることはなくむしろ時間が経つ程に燃え上がってしまっている。
それは次のコラムとコメントをもらったことに対する文章が私の予測したことと全く違っていたためだ。
次のコラムは女子パシュートの銀メダルに他者の言葉を借りてつめが甘い、執念に差があると切り捨てている。一応その後に次は金メダルを取って欲しいと書かれているがその文面から選手に対する敬意が感じられない。
あげくに、ルールがどうのこうのと言う前に勝たなければしょうがない、国際オリンピック協会に日本人に不利なルール変更については適時適切に申し入れすると同時に、日本選手が精神面でも強くなって欲しい・・・と続く。
この次のコラムを目にした時、前の時に感じた自分の感覚は間違っていたとおもった。この人は(うっかりさんな)バカではなく真性の馬鹿なのだ、と。
読者からの親切な忠告や間違った認識に対する諫言は全く通じていなかったのだ。
決勝戦まで何レースもこなし勝ち上がった選手達が「精神面で弱い」のか?それではその日本に負けた他の国々は?精神的に弱い存在なのか?他の国ではどうかわからないが日本では少なくても競技で勝っても負けても相手を尊重するのではなかったか?
勝つことだけが目的であるならメダルは金だけで良い。金メダルを与えることがそもそもオリンピックの精神なのか?
それだけではない。不利なルールの変更を申し入れしていく・・・など終わった後に言うなら誰でも出来る。
今までそれだけのことをしてきたのかどうか、何故現状がこうなのか、その原因がどこにあるのかと突き詰めていけばこの国を動かしてきた政治家にも行きあたるはずだ。その一角を担う立場にありながら選手を守れなかったことに対し謝意を示すこともなく軽々しく結果だけで勝たなければ意味がないという。
流石にこの文面を見た時には頭を抱えた。私は静岡県民だ。城内氏の選挙区ではないが郵政選挙前後から話題になる氏のニュースは他県の人よりはよく見てきた。不遇の時代があり再選という結果に頑張って欲しいと期待した一人である。
だからこそこのパシュートのことを書かれたコラムにはひどく腹が立った。
上記のオリンピックの話題の後は自身の選挙の話に続く。
曰く、郵政選挙の時に敗れたのは自分の努力が足らなかったからで、前回の選挙で勝ったのは努力したからだ、と。
これには開いた口が塞がらなかった。自分が努力したから選挙で勝った、本気でそう言うのなら議員バッジを外すべきである。それは氏に投じた1票1票に、そして氏以外の人に投じられた1票1票に対する冒涜である。
城内氏は自身を信念の人と呼び理解を求めている。このコラムもどうやらその信念に従って書かれたものらしい。中途半端な認識による理解でも絶対的に正しいと信じているようだ。
信念・・・といえば聞こえが良いが、見方を変えればただの思い込みすぎない。真っ直ぐであればあるほどものの本質からそれやすく世界が狭くなる。
今回も数多くの批判や忠告がされたが、どうも罵詈雑言としか受け止められなかったようだ。匿名でも良いのでご意見をとブログに謳いながらいざ批判が増えると「実名で書くべきだ」とくる。どうやら自分に少しでも誤りがあるとは思ってないらしい。
最初のコラムのコメントをつけた多くの人々はあおりや中傷ではなく、フィギュアスケートが好きで一方的な氏の言葉に意見を書かずにいられなかった人だ。いわば最も一般的な市民だ。彼らが求めていたのは偏見的な氏のとらえ方の訂正と代表選手に対する敬意と愛情だったはずだ。
「自分の書き方が悪く不快にさせてしまってすみませんでした」などの誠意ある謝意が見られればこんな事にならなかった。
過去、周囲で色々ともめ事が起こってきたのはひとえに氏のこういった独善的なものの考え方から来ているのではないか・・・どちらかと言えば好意的に受け止めていたが、こう人の話に耳が貸せないのであれば政治家としても人間性でも致命的であると言うしかないだろうと思った出来事だった。
発端は彼が書いた女子フィギュアスケートの結果に対するコラムだ。
韓国のキム・ヨナ選手は早くからカナダで練習するなどオリンピックで金メダルを取るために大変努力した。浅田選手など日本人選手は努力が足りず完敗であった・・・と言うような事が書かれていた。
おそらく文面の最後にちらっと出てくるスポーツ振興にもっと国を挙げていかないと・・・ということを言いたかったと推測するが、書き方が悪すぎた。
選手に対し「お疲れ様」などのねぎらいの一つもない。そもそも日本代表選手の名前を間違えている。明らかにフィギュアスケート競技の知識が無く点数や諸々新聞テレビなどで報道された程度の情報のみで自己の理論を展開している・・・などなどオリンピックなど大きなイベント事の時に良く見かける世間の話題に乗ってみた素人の文章だ。
私はたぶん書かれてからそれほど時間の経っていない頃にそれを見た。フィギュアはかなり好きなのでそれ関係のブログやニュースを渡っている内に引っかかったのだ。
読んで最初に思ったのは「この人東大卒で元官僚で勉強は出来るだろうけどバカだったんだな~」というものだった。
別に軽蔑したわけでもないし怒ったわけもない、ただ多少の呆れと同情を感じたくらいだ。少なくても自分の関心のない事例については無知なんだと言うことがよくわかったからだ。
その時にもすでにコメントは付いていた。中にはかなり詳しい方が無知な議員にフィギュアスケートのルールや採点方式の問題点などを説明しているものも幾つかあった。そう言ったコメントを読めば自分の無知加減や選手やコラムの読者に不快に感じさせたことが理解できるだろう。
きっとそのうちコラムを取り下げるか謝罪コメントを出すのだろう、と当初はたいした事じゃないと思った。
時事ネタによく知らないながらも自分なりの意見をつけたいのは世間ではよくあること。代議士でありながらといわれればそうかもしれないが口が滑ることは誰にだってある。
しかしながらその後コラムに1,000近くのコメントが付きながら一向に静まることはなくむしろ時間が経つ程に燃え上がってしまっている。
それは次のコラムとコメントをもらったことに対する文章が私の予測したことと全く違っていたためだ。
次のコラムは女子パシュートの銀メダルに他者の言葉を借りてつめが甘い、執念に差があると切り捨てている。一応その後に次は金メダルを取って欲しいと書かれているがその文面から選手に対する敬意が感じられない。
あげくに、ルールがどうのこうのと言う前に勝たなければしょうがない、国際オリンピック協会に日本人に不利なルール変更については適時適切に申し入れすると同時に、日本選手が精神面でも強くなって欲しい・・・と続く。
この次のコラムを目にした時、前の時に感じた自分の感覚は間違っていたとおもった。この人は(うっかりさんな)バカではなく真性の馬鹿なのだ、と。
読者からの親切な忠告や間違った認識に対する諫言は全く通じていなかったのだ。
決勝戦まで何レースもこなし勝ち上がった選手達が「精神面で弱い」のか?それではその日本に負けた他の国々は?精神的に弱い存在なのか?他の国ではどうかわからないが日本では少なくても競技で勝っても負けても相手を尊重するのではなかったか?
勝つことだけが目的であるならメダルは金だけで良い。金メダルを与えることがそもそもオリンピックの精神なのか?
それだけではない。不利なルールの変更を申し入れしていく・・・など終わった後に言うなら誰でも出来る。
今までそれだけのことをしてきたのかどうか、何故現状がこうなのか、その原因がどこにあるのかと突き詰めていけばこの国を動かしてきた政治家にも行きあたるはずだ。その一角を担う立場にありながら選手を守れなかったことに対し謝意を示すこともなく軽々しく結果だけで勝たなければ意味がないという。
流石にこの文面を見た時には頭を抱えた。私は静岡県民だ。城内氏の選挙区ではないが郵政選挙前後から話題になる氏のニュースは他県の人よりはよく見てきた。不遇の時代があり再選という結果に頑張って欲しいと期待した一人である。
だからこそこのパシュートのことを書かれたコラムにはひどく腹が立った。
上記のオリンピックの話題の後は自身の選挙の話に続く。
曰く、郵政選挙の時に敗れたのは自分の努力が足らなかったからで、前回の選挙で勝ったのは努力したからだ、と。
これには開いた口が塞がらなかった。自分が努力したから選挙で勝った、本気でそう言うのなら議員バッジを外すべきである。それは氏に投じた1票1票に、そして氏以外の人に投じられた1票1票に対する冒涜である。
城内氏は自身を信念の人と呼び理解を求めている。このコラムもどうやらその信念に従って書かれたものらしい。中途半端な認識による理解でも絶対的に正しいと信じているようだ。
信念・・・といえば聞こえが良いが、見方を変えればただの思い込みすぎない。真っ直ぐであればあるほどものの本質からそれやすく世界が狭くなる。
今回も数多くの批判や忠告がされたが、どうも罵詈雑言としか受け止められなかったようだ。匿名でも良いのでご意見をとブログに謳いながらいざ批判が増えると「実名で書くべきだ」とくる。どうやら自分に少しでも誤りがあるとは思ってないらしい。
最初のコラムのコメントをつけた多くの人々はあおりや中傷ではなく、フィギュアスケートが好きで一方的な氏の言葉に意見を書かずにいられなかった人だ。いわば最も一般的な市民だ。彼らが求めていたのは偏見的な氏のとらえ方の訂正と代表選手に対する敬意と愛情だったはずだ。
「自分の書き方が悪く不快にさせてしまってすみませんでした」などの誠意ある謝意が見られればこんな事にならなかった。
過去、周囲で色々ともめ事が起こってきたのはひとえに氏のこういった独善的なものの考え方から来ているのではないか・・・どちらかと言えば好意的に受け止めていたが、こう人の話に耳が貸せないのであれば政治家としても人間性でも致命的であると言うしかないだろうと思った出来事だった。
かわいそうな金メダリスト
2010年2月27日 雑記バンクーバーオリンピックもそろそろ終わろうとしている。
昨日は女子フィギュアフリーが行われ日本人3人がすべて入賞した。
いくつか前までのオリンピックでは枠を増やすことに一生懸命だったことから思えば男女6人入賞と言うのはこの上も無く良い結果だと言わざるを得ない。
浅田選手には金メダルの期待が大きかっただけに銀は少し残念ではあるが、現行ルール上の不利は最初から指摘されていたのでミスがあった以上仕方ないと思える。それでも女子初の快挙はすばらしいと褒め称えたい。点数がでるでないではなく賞賛すべきことだと思う。
ミスの少ない選手が勝つというのは前のオリンピックからの風潮である。荒川選手はうまくその状況に乗り金メダルを取った。そういう意味でミスが無いプログラムを滑った韓国選手が金メダルなのは妥当だ。それは見ていて当然だと思った。
しかしながら得点が出たときには驚いた。そして同時にこの金選手はかわいそうな選手だと同情してしまった。何しろ過去最高点を記録してしまったのだ。それもおそらく女子で今後これを越えることはできないだろうと言うほどの。
全般的に昨日の女子フリーは点数がインフレ気味であった。一部選手が抑えられた印象はあるが全体的にかなり高めについている。自己ベストを5点以上アップと言う選手が何人もいることから確かであろう。それまでの流れからして金選手にかなり高得点が出ることは予想できた。しかしまさか220点を越えるとは思わなかった。男子並みの得点と報道されたがその通りである。
今日の新聞に金選手の得点は男子でも13位に当ると言う記事があったがそれは間違いである。女子と男子では計算式が違うからだ。金選手の得点を男子の計算方式でするとなんと3位の高橋選手を上回ってしまう。男子に混じっても銅メダルが取れることになるわけだ。おまけに女子は男子に比べ要素が1つ少ない。他の要素と同じくらいの感覚でもう一つの要素分の得点を足したなら……これ以上のことは言わないほうがいいだろう。つまりそれほどの得点と言うわけだ。いくらなんでもやりすぎだ。
今回の女子フィギュアの金銀の順位は妥当だろう。問題は得点である。
金選手が200~205点(点が出る傾向だったから最大210点)、浅田選手が190~195点(同じく最大200点)程度であれば何の問題も無かったはずだ。(ついでに長洲・ロシェット・安藤選手が180~190点、最大195点位が妥当では?)
金選手はミスの無い演技をし浅田選手はミスがあった。その差でメダルの色が決まった、それなら私は金選手をかわいそうだとは思わなかった。
採点競技であるフィギュアはその得点が会場や開催条件によって変動を受けやすい。また地元有利はどこでもおこる。これはまぁ仕方の無いことだ。しかしだからといってそれを際限なくしてはもはやスポーツではなくなる。
今回はオリンピック会場がカナダであることから北米有利の採点方式と言われた。男子の金はアメリカでありアイスダンスはカナダが取った。女子の金選手は国籍こそ韓国であるがコーチや練習場所はやはり北米である。その流れに沿った結果と言えよう。
そして次はソチ・ロシアである。今回ロシアはあまり良い結果でなかったことからも次回はそちらのほうに有利な採点に変更されていくことは予想される。ただどう変更になったとしても現状の加点天上知らずの傾向はおそらく歯止めが掛かるはずだ。出なければスポーツではなくなる。
そうなれば金選手が今回出した得点を上回ることはおそらくない。男子並みの得点など普通に考えたらありえないのだから。女子最高得点としてこの先ずっと残ることになる。私がかわいそうだと思ったのはその部分だ。
10年とか20年経って子供達に「これが最高得点の演技だよ」と金選手の映像を見せる。おそらく基礎点や計算方式は変わっているだろう。そうなれば当然子供達は疑問に思う『なぜこんな高得点が出るの?』と。
スピードが(最初は)ある、3-3がきれいに飛べる、上半身(特に腕)の使い方が上手い…という金選手の良さだけでは説明できない得点だ。
金選手は体が硬く腰が悪いためスパイラルのポジションは余り良くないしスピンも腰高の傾向がある。それはフィギュアをやっていれば子供でもわかる。それなのに…である。
金選手は良い演技をして金メダルを取った。それは間違いの無いことだ。しかしながら過剰に加点をしたためありえない点数が出てしまった。それは金選手の罪ではない。しかし彼女はこれからずっとこの得点を背負っていくことになるのだ。
「この演技で何故こんな高得点が?」
未来の人々にそう思われるだろう点数を与えられてしまったために・・・それはあまりにも哀れである。
演技そのもので十分金メダルに相応しかったのに…ミスに泣く浅田選手以上に金選手がかわいそうで仕方が無い女子フィギュアだった。
昨日は女子フィギュアフリーが行われ日本人3人がすべて入賞した。
いくつか前までのオリンピックでは枠を増やすことに一生懸命だったことから思えば男女6人入賞と言うのはこの上も無く良い結果だと言わざるを得ない。
浅田選手には金メダルの期待が大きかっただけに銀は少し残念ではあるが、現行ルール上の不利は最初から指摘されていたのでミスがあった以上仕方ないと思える。それでも女子初の快挙はすばらしいと褒め称えたい。点数がでるでないではなく賞賛すべきことだと思う。
ミスの少ない選手が勝つというのは前のオリンピックからの風潮である。荒川選手はうまくその状況に乗り金メダルを取った。そういう意味でミスが無いプログラムを滑った韓国選手が金メダルなのは妥当だ。それは見ていて当然だと思った。
しかしながら得点が出たときには驚いた。そして同時にこの金選手はかわいそうな選手だと同情してしまった。何しろ過去最高点を記録してしまったのだ。それもおそらく女子で今後これを越えることはできないだろうと言うほどの。
全般的に昨日の女子フリーは点数がインフレ気味であった。一部選手が抑えられた印象はあるが全体的にかなり高めについている。自己ベストを5点以上アップと言う選手が何人もいることから確かであろう。それまでの流れからして金選手にかなり高得点が出ることは予想できた。しかしまさか220点を越えるとは思わなかった。男子並みの得点と報道されたがその通りである。
今日の新聞に金選手の得点は男子でも13位に当ると言う記事があったがそれは間違いである。女子と男子では計算式が違うからだ。金選手の得点を男子の計算方式でするとなんと3位の高橋選手を上回ってしまう。男子に混じっても銅メダルが取れることになるわけだ。おまけに女子は男子に比べ要素が1つ少ない。他の要素と同じくらいの感覚でもう一つの要素分の得点を足したなら……これ以上のことは言わないほうがいいだろう。つまりそれほどの得点と言うわけだ。いくらなんでもやりすぎだ。
今回の女子フィギュアの金銀の順位は妥当だろう。問題は得点である。
金選手が200~205点(点が出る傾向だったから最大210点)、浅田選手が190~195点(同じく最大200点)程度であれば何の問題も無かったはずだ。(ついでに長洲・ロシェット・安藤選手が180~190点、最大195点位が妥当では?)
金選手はミスの無い演技をし浅田選手はミスがあった。その差でメダルの色が決まった、それなら私は金選手をかわいそうだとは思わなかった。
採点競技であるフィギュアはその得点が会場や開催条件によって変動を受けやすい。また地元有利はどこでもおこる。これはまぁ仕方の無いことだ。しかしだからといってそれを際限なくしてはもはやスポーツではなくなる。
今回はオリンピック会場がカナダであることから北米有利の採点方式と言われた。男子の金はアメリカでありアイスダンスはカナダが取った。女子の金選手は国籍こそ韓国であるがコーチや練習場所はやはり北米である。その流れに沿った結果と言えよう。
そして次はソチ・ロシアである。今回ロシアはあまり良い結果でなかったことからも次回はそちらのほうに有利な採点に変更されていくことは予想される。ただどう変更になったとしても現状の加点天上知らずの傾向はおそらく歯止めが掛かるはずだ。出なければスポーツではなくなる。
そうなれば金選手が今回出した得点を上回ることはおそらくない。男子並みの得点など普通に考えたらありえないのだから。女子最高得点としてこの先ずっと残ることになる。私がかわいそうだと思ったのはその部分だ。
10年とか20年経って子供達に「これが最高得点の演技だよ」と金選手の映像を見せる。おそらく基礎点や計算方式は変わっているだろう。そうなれば当然子供達は疑問に思う『なぜこんな高得点が出るの?』と。
スピードが(最初は)ある、3-3がきれいに飛べる、上半身(特に腕)の使い方が上手い…という金選手の良さだけでは説明できない得点だ。
金選手は体が硬く腰が悪いためスパイラルのポジションは余り良くないしスピンも腰高の傾向がある。それはフィギュアをやっていれば子供でもわかる。それなのに…である。
金選手は良い演技をして金メダルを取った。それは間違いの無いことだ。しかしながら過剰に加点をしたためありえない点数が出てしまった。それは金選手の罪ではない。しかし彼女はこれからずっとこの得点を背負っていくことになるのだ。
「この演技で何故こんな高得点が?」
未来の人々にそう思われるだろう点数を与えられてしまったために・・・それはあまりにも哀れである。
演技そのもので十分金メダルに相応しかったのに…ミスに泣く浅田選手以上に金選手がかわいそうで仕方が無い女子フィギュアだった。
年間で10~20枚強DVDを購入している。
ALFEEとか宝塚とか古い洋画とか・・・まぁジャンルは偏っていて時間があったら見たいと思っているものなのだが実際半分以上は見れないでいる。
なぜならDVDは大抵2時間以上の時間がかかるもので特に最初の1回は中断なく見たいと思っている私には落ち着いて見る時がなければなかなか封が切れないのだ。
しかしながらこの土日、久々にDVDを長時間じっくり見た。
切っ掛けは先日報道された藤田まこと氏の死去の報道だった。
幼少の頃から時代劇を当たり前に見ていた私にとって藤田氏はなじみのある役者だ。必殺シリーズはさすがに高校以降に見たのだがそれでもかなりの数を見た。先年来病で仕事を休んでいることは知っていたがそれでも衝撃のニュースだった。
そのため買っておいたが封も切っていなかった必殺仕事人のDVDをじっくり見ることにした。
私が初めて必殺を見たのは高校3年の頃だ。たぶん無印のⅤだったと思う。村上弘明氏と京本政樹氏がいたシリーズだ。
全話ではなく数話を見たくらいでその後激闘編やら旋風編やら色んなシリーズを放映順に関わらずに見ることになる。仕置人も初期必殺もちょこちょこ見てきた。
その為数年前から必殺シリーズがDVD化したためいつか見ようと購入していたのだ。
土日で1シリーズを見て、テーマ曲た音楽がぐるぐる回っている。話はシンプルだが今時のドラマでは出来ない仕掛けや映像美がそこにある。どれほど撮影技術が未熟であっても今では作れない時代劇がそこにある。
作りもそうだが役者も時代とともに変わった。この役はこの人でなくてはと言うほどの味や存在感のある人が少なくなった。シリーズものの映画やドラマが少なくなったことがそれを証明しているのかもしれない。
藤田氏の死去は一つの時代が終わったことを告げている。
必殺は数少ない人気シリーズなので今後もたぶん続いていくだろう。しかし本当の意味での仕事人シリーズはもう新作を見ることが出来ないのだと実感してDVDを見ながらとても残念に思った。
ALFEEとか宝塚とか古い洋画とか・・・まぁジャンルは偏っていて時間があったら見たいと思っているものなのだが実際半分以上は見れないでいる。
なぜならDVDは大抵2時間以上の時間がかかるもので特に最初の1回は中断なく見たいと思っている私には落ち着いて見る時がなければなかなか封が切れないのだ。
しかしながらこの土日、久々にDVDを長時間じっくり見た。
切っ掛けは先日報道された藤田まこと氏の死去の報道だった。
幼少の頃から時代劇を当たり前に見ていた私にとって藤田氏はなじみのある役者だ。必殺シリーズはさすがに高校以降に見たのだがそれでもかなりの数を見た。先年来病で仕事を休んでいることは知っていたがそれでも衝撃のニュースだった。
そのため買っておいたが封も切っていなかった必殺仕事人のDVDをじっくり見ることにした。
私が初めて必殺を見たのは高校3年の頃だ。たぶん無印のⅤだったと思う。村上弘明氏と京本政樹氏がいたシリーズだ。
全話ではなく数話を見たくらいでその後激闘編やら旋風編やら色んなシリーズを放映順に関わらずに見ることになる。仕置人も初期必殺もちょこちょこ見てきた。
その為数年前から必殺シリーズがDVD化したためいつか見ようと購入していたのだ。
土日で1シリーズを見て、テーマ曲た音楽がぐるぐる回っている。話はシンプルだが今時のドラマでは出来ない仕掛けや映像美がそこにある。どれほど撮影技術が未熟であっても今では作れない時代劇がそこにある。
作りもそうだが役者も時代とともに変わった。この役はこの人でなくてはと言うほどの味や存在感のある人が少なくなった。シリーズものの映画やドラマが少なくなったことがそれを証明しているのかもしれない。
藤田氏の死去は一つの時代が終わったことを告げている。
必殺は数少ない人気シリーズなので今後もたぶん続いていくだろう。しかし本当の意味での仕事人シリーズはもう新作を見ることが出来ないのだと実感してDVDを見ながらとても残念に思った。